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                                 南郷通信 

        南宮崎の南郷町の風物や、世のありさまで感じた事をマンスリーでつづっております。


                       第78号 平成19年5月31日

 風薫る5月、外浦の海は輝いております。あれほど出入りが激しかった鰹船の姿が見えなくなりました。数日前に岸壁を散歩しましたが1隻も停泊していません。遠く三陸沖でのぼり鰹を追い、東国の港に揚げているので帰るひまがないのかもしれません。時は移り変わっていきますが、われわれ夫婦の生活にはほとんど変化がありません。

 変わっていくのは年老いた人たちが亡くなって、人口が減っていくのを止められない事ぐらいでしょう。この地方は葬儀の案内を交通の要所となる交差点に小ぶりの立て看板で知らせる習慣があります。以前に住んでいた大阪では葬儀社が式場の場所の道案内に電柱などに張り紙をするか、ぺらぺらの布張りの立て看板を縛り付けていました。この道案内よりもむしろ告知の役割を果たしているのがこの立て看板です。一昨日の外浦地区ではお二人の葬儀が行われました。それが自宅葬ではなく、どちらも式場葬でした。それも一箇所で時間をずらしたのではなく別々の場所でした。つまり二箇所あるという事です。

 50年余り前、アメリカ映画で葬儀の場面があり、豪華な葬斎場のシーンに驚きました。そのころの日本では東京の青山葬儀場や大阪の天王寺斎場、あるいは南御堂で葬儀を行うのは政財界の著名人だけで、ほとんどが自宅葬だったからです。なんで一般の人がこんなに高い葬儀場でやるのだろうと不審に思いました。そのころ私の近所で死人が出ると、隣組の人たちが手助けに駆けつけて野辺の送りを済ませていたからです。

 現在は日本でも式場葬が増えております。私たち夫婦が南郷町に移り住んだ平成12年には、葬斎場といえばお隣の日南市に1つだけだったと記憶しております。ところが現在は電話帳に5軒あります。その上、10日ほど前に、つぶれたホームセンターの跡地を利用した葬斎場の開店チラシが入っていました。南郷町では平成14年ごろと思いますが、地元の葬儀社が葬斎場を開設しました。それでも大勢としては自宅葬が優位のようでした。

 これを覆したのが一昨日の葬儀です。会葬者に日南市まで遠出してもらわなくても、南郷町内で斎場葬が同時に2つできるようになっていました。これは先月の終わりごろだったと思いますが、新たな葬斎場が完成しました。まだチラシは入っていませんが、すでに数回利用されたようです。南郷町の人口は1万1千、所帯数4千です。日南市は4万3千に1万7千所帯です。単純計算では葬儀社1社あたりの所帯数は日南市2千8百、南郷町2千です。いかに高齢化率が進んでいるとはいえ、これでやっていけるのだろうかと、人ごとながら心配になります。

 新しく出来た南郷町の葬斎場の中身は知りませんが、霊柩車がおったまげる代物です。霊柩車といっても金ピカの宮造りではなく、ハッチバックの黒塗りです。これがなんと7ドアーなのです。つまり横から見るとドアーが3つ並んでいます。近くは自殺した松岡大臣の遺骸を病院から新宿の仮通夜会場まで運んだのも、愛知県警の殉職警官の棺を火葬場まで運んだのも、晩節を汚した元大阪府知事横山ノックの葬儀で使われたのも、すべて5ドアーでした。

 通りすがりにこの車に驚いて見に行きました。製造社名はありませんでしたが、棺を収めるあたりのレザー張りの側面には FEDERAL のマークが斜めに付いていました。ナンバープレートは830でした。大型特殊車両を除いた特殊車両に使うナンバーで、パトカー、宣伝車、キャンピングカーと共に霊柩車も含まれています。後ろにもエンブレムはありません。フェデラルはおそらく霊柩車のモデルではないかと思います。タイヤのホイールキャップに LINCOLN の文字がありました。フォードのリンカーンコンチネンタルです。そういえばボンネットのエンブレムにも見覚えがあります。運転席を覗くとキーが差し込んだままでした。盗まれたらどうするのかと心配しましたが、これは取り越し苦労でした。ドアーハンドルの横にボタンが4つ並んでおり、これが指紋認証キーになっているようです。タイヤを見ますと、まだヒゲが何本も立っております。つまりこれは新車です。下司の勘ぐりですが、値段は2千万円以上はするでしょう。リース代でもバカになりません。この初期投資を回収するのは大変だろうなと同情します。

 黒く輝くドアーと後部側面のレザー張りのくすんだ漆黒の絶妙なコントラスト。ずっしりと長い車体の圧倒的な存在感。見れば見るほど惚れ惚れするような立派な車です。だがいくら立派だといっても、これに乗りたいとは決して思いません。



                       第77号 平成19年4月30日

 早いものでもう1年の3分の1が今日で終わります。年をとると時間の経つのが驚くほど早い。若い時は去年の出来事を思い出すと、後から後から走馬灯のように記憶がよみがえり、それがまた新鮮でした。今はもううっすらとした記憶の断片が少しだけしか残っていません。まさに年齢と時間は逆数関係にあります。

 外浦漁港の突堤には恒例の鯉のぼりが張り渡されています。今までは端から端までロープを張っていましたが、今年は真中に竹竿を増やしてたるみを防いでいます。面白いことに、外半分は鰹のぼりで、内半分が赤・黒・緑の鯉のぼりと吹流しになっています。その数は約30匹ほど。お隣の日南市では日南ダムの堰堤250メートルに350匹の鯉のぼりが張られていますが、これは中継ぎなしに堰堤いっぱいに張られています。観光情報にもとりあげられている恒例行事です。テレビで見ると鯉のぼりを結んだワイヤーロープを堰堤の地面に端から端まで渡し、それをトラクターで牽引して高く張っていました。ロープを支える両端の支柱がしっかりしているから中継ぎが要らないのでしょう。

 日南市がこのあたりの商業の中心地ですが、少しずつ増えているのは大手チェーンが展開する店舗です。しかし、これにも優勝劣敗があります。3年以上続いた眼鏡店、もっと古くからあったジーンズと靴のチェーン店が完全閉店の広告を打っています。全体でみると出店数よりも閉店数の方が多いように感じます。

 鰹漁はどうも良くないようです。もう漁場は東海沖に移っていると聞きました。町の広報によると去年1年の前年比漁獲高はー40.31%、漁獲高は+6.47%でしたが、今年3月末現在の前年比漁獲量はー64.2%、漁獲高はー40.31%になっています。これでは原油高騰によるコストアップを賄うどころではありません。そんな中今月の県会議員選挙のさなかに、近海マグロ延縄漁船19トン型の新造船が外浦漁港に入港してきました。外浦漁協に所属するのは鰹船だけと思っていたら、マグロ船も3隻いるそうです。さらに1隻増えましたがその船価は2億円と聞きました。この厳しい漁業環境の中、はたして償却してゆけるのだろうかと、ど素人の私は心配します。

 町長と町会議員選挙が22日にありました。町長は現職と新人の一騎打ちとなりましたが、現職が僅差で当選しました。町会議員になると戸別訪問まがいの地縁血縁による売り込みが激しいようでした。そのわりに天気が良かったにもかかわらず、投票率は前回を下回りました。

 選挙の熱気も失せ、先週の土曜日からゴールデンウイークが始まり帰省客、観光客で空港も賑わっているようです。旅行ツアーには県庁見学コースまで始まったそうです。テレビが伝えるJR宮崎駅前に店を開いている旅館連盟の案内所の話によると、5月3日の宿泊施設はほぼ満杯だそうです。東国原人気はすごいものだと思います。これにあやかって知事が東京で配っていた、イラスト入りの宮崎地頭鶏(みやざきじとっこ)炭火焼のパックを試食しました。いろいろのブランドがあるこの炭火焼は前から知っていましたが、黒味がかった不味そうな外見でしたので食べてはいませんでした。イラスト入りは思ったとおり不味いので、ほかのも試してみましたがやはり不味かった。本来の地頭鶏炭火焼はもっともっと美味しいものです。



                       第76号 平成19年3月30日

 2月が暖かかったので今月前半の寒さに縮こまりました。さすがに彼岸に近付くと寒さは緩み、その次ぎの日曜日はさながら田植デー。どの田んぼも早期水稲がか細い葉っぱをそよがせています。苗と苗の間隔は10センチほどしかありません。私の小さいころの記憶ではもっと大きな苗が20センチあるいはそれ以上の間隔で植えられていたと思います。早場米だからかもしれませんが、芝生の雑草と間違えそうなほど小さい苗です。消え入るように田んぼの水面にゆれている苗が、見る見るうちに大きく育ち、8月早々には稲刈りの時期を迎えます。

 開花宣言は今年も東京が一番でした。桜前線は南から波紋を広げるように北上するという常識が通らなくなりました。関東地方の2月の気温が相対的にこちらよりも高かったのかもしれません。翌年の花芽は前年の夏に作られて秋には休眠に入り、冬の十分な寒さを受けて目覚める「休眠打破」が起こります。暖冬ではこの打破が遅れます。開花時期は2月後半以降の気温により早まったり遅れたりします。九州よりも関東がこの条件を満たしていたのでしょう。

 外浦漁港の鰹船の出入りが激しくなっております。フィリッピン、台湾沖から南西諸島あたりに漁場が移ったからでしょう。ひどいのになると前日に入って次ぎの日の未明には出港します。夜に出入りする船は電灯を明々と灯しています。岸壁に繋がれている船が夜に明るい電灯で飾られると出港が間近かと分かります。外浦湾は湾口7百メートル、奥行き1キロ少しです。その西半分の入口側が外浦漁港です。入口側から小型漁船、真ん中が鰹船、奥が水中観光船の乗り場で、二本の突堤で三分されています。防波堤は湾口と小型漁船、鰹船溜まりの入口にもあります。湾口防波堤の外には並行するように小島と岩礁が連なっています。

 鰹船が出港する時は船溜まりの入口を出て湾内を進み、防波堤の切れ目から岩礁と防波堤の間を縫うように進み、対岸の栄松岬の蔭に入り外洋へと向かいます。船溜まりを出た鰹船が速度を上げながら防波堤を目指しております。突堤で見送っていた車の早いのは船溜まりを出るとすぐ、遅いのでも速度を上げて湾内を進んでいる途中にヘッドライトを輝かせて去っていきます。

 今は埋め立てられて陸地になっていますが、4百年あまり前、ここ外浦から北に3キロ半ほどのところは飫肥南郷港という当時の九州最大の貿易港でした。そこには泣き岩というのがありました。日向灘を見下ろす小高い岩場で、船乗りのおかみさんや娘さんたちがその上に佇んで、出てゆく船を見送ったと言われています。一旦外海に出れば板子一枚下は地獄。生きて帰ってくる保証はない。今生の別れとなるかもしれぬ夫や父親を遥か洋上に船影が見えなくなるまで泣きながら見送った岩です。

 現在の奥方様はせめて岬の先端に船影が消えるまで見送ってはと思いますが、「亭主元気で留守がいい」とルンルン気分で帰ってゆく様子を、その軽やかなハンドル捌きから想像しています。




                       第75号 平成19年2月28日

 去年の1月2月の厳冬が嘘のように今年はほんとうに暖冬でした。夏人間を自認する私にとってはありがたい冬でしたが、日本最南端の県内スキー場などは早めに営業を終了せざるを得ず、売上激減でまことにお気の毒です。自然を相手に季節商品を扱う業界では悲喜こもごもです。温暖化だけで去年の厳冬は説明できませんが、地球規模で見ると気象変化が年々荒々しくなっているように感じます。赤道付近の偏西風と高緯度のジェット気流の組み合わせが少し狂っただけで、地上では洪水と旱魃、酷暑と酷寒が場所によって正反対の現れ方をして被害が大きくなっております。

 「あっ、ツバメ」 と思った時にはもう見えなくなっていました。一瞬の出来事なので流麗な燕尾を確認できませんでしたが、その飛び方はツバメそのものでした。いくらなんでも2月10日ごろに居る訳ないと思いながらも吹っ切れないままでした。ところがテレビでツバメの飛来が例年より早く、鹿児島では2月初め、宮崎でも10日と報じておりました。やっぱりあれは本物でした。油断するとあっという間に玄関上にある電気メーターに巣を作ってしまいます。そこにペットボトルなどを置いて妨害しなければなりません。怠ると足許が糞だらけになってしまいます。

 スギ花粉の季節です。今まで気が付かなかったのですが、遠くの山を見るとなんとなく山全体が赤茶けています。まだら模様の赤茶けもあります。これがスギの開花でした。双眼鏡で見ると日の当る側だけ赤茶けて、後ろ側、つまり他の木や山側に面している部分は青味が残っています。毎年の事なのに7年目でようやく気が付きました。都会暮らしの習性で自然を見る目が如何に弱いのかが判りました。一番近い杉林は2百メートルほどしか離れていません。このままスギ花粉を吸い続けると抗体が出来てしまい、花粉症に苦しむようになる恐れが十分にあります。ぽかぽか陽気に散歩などもってのほか。買い物以外は外出を極力控え、室内運動器具で体力造りに励みます。

 水稲田はもう代掻きがすみ水も張り終っています。来月早々には超早場米の田植が始まります。自然の営みは変わることなく繰り返されますが、生臭い宮崎県政は変わるのでしょうか。東国原新知事の議会答弁は熱のこもった口調ではありますが具体性に欠けております。まだ様子見で議会との間合いを探り合っているようです。6月の議会でどれだけの具体的な政策を発表するのか。それを議会とどう渡り合って議決させるのかが腕の見せ所です。わたしの考えでは、最初は小さな提案で根回しを十分に行い可決に持っていく。その頃合いを見計らって入札制度改革を不退転の気迫で、マスコミをうまく使いながら抵抗勢力を押さえ込み、一気呵成に可決に持ち込む。一度やると後は楽になる。戦略は細部に宿る。”たのんまっせ” そのまんま、いや、東国原、西都原のダンナ。


                       第74号 平成19年1月31日

 今年の宮崎県は激動の時代に巻き込まれたようです。新しい知事に東国原(ひがしこくばる・そのまんま東、湯桶読みのうえに琉球読みの”ばる”が続くので読みにくい)氏が選ばれました。開票速報で開票率わずか1%、本命視されていた川村候補が4千票、そのまんま候補が2千票の段階で当確がでたのはなんとそのまんま氏でした。東国原、重箱読みに琉球語の「ばる」が混じるので言いにくい名前です。保守王国の面々は芸人風情と軽く見て分裂選挙でも勝てるとふんでいたのが裏目にでました。就任早々鳥インフルエンザ騒ぎで東西奔走。しかし芸人の経験を生かしてか、うまくマスコミにのって広告塔の役目を果たしています。

 最初の発生地、清武町から北へ60kmの日向市で2例目、防疫態勢も抜かりなく知事は東京の官庁廻りのさなかに、ちょうど両地の中間地点の新富町で第3例目が発生しました。半径10km以内の鶏と卵は移動禁止ですから、新富町の外側10kmから20kmの中間帯にある鶏と卵の業者は大変です。一刻も早くと出荷を急いでいることでしょう。知事は「はっきり言ってショックです。なんで宮崎ばかりなんだ」とぼやいていました。気持ちはわかりますが知事たる者に愚痴は禁物。

 議会とどう向き合っていくのかがこれからの課題です。調整に徹すれば埋没してしまい、青島幸男や横山ノックの轍を踏みます。対決色を全面にだして田中康夫ばりに議会と大喧嘩するのか。どうもその勢いはないように思われます。役所も陰に陽に足を引っ張ろうと試みているように見受けます。たとえば日向で新に発生した鳥インフルで、新知事は予定を変更して現場に向かおうとしました。役人から司令部として県庁で指揮をとってほしいとの進言を退けて出発しようとすると、前例がないと公用車の用意を断ったそうです。新知事は民間の白いバンで急行しました。わたしは前線急行型よりも本部指揮を選びたいところです。しかし行ってしまったのなら説明を現地係官から聞くだけで終わらせずに、防護服を着て鶏舎の中に入ったのならもっと宣伝効果があっただろうと思います。

 南郷町にも放し飼いにして地頭鶏(じとっこ)という味のよい鶏を育てている養鶏業者が何軒かあります。この人たちは心配で夜もおちおち眠れないだろうと同情します。こればっかりはいくら防鳥網を張って中国青海湖原発のH5N1型ウイルスの侵入を防ごうとしても、ハエや野鼠(暖冬の南宮崎の鶏舎の周りにはこの時期でも居ると思うよ)などが落ちたフンを経由して持ち込んできます。完全密閉型の鶏舎でもないかぎり防ぐ方法はないでしょう。ただただ発生しないことを祈るばかりです。

 南郷町には3つの漁業協同組合があります。去年の11月まで1年間の3漁協の漁獲量と漁獲高が町の公報に記載されておりました。それによると前年同期比で漁獲量は13.5%減り、漁獲高は10.6%増えています。つまり消費者にとって魚は高くなったということです。クロマグロの漁獲量が制限されつつあります。わが家のような低所得層には縁のない魚ですが、庶民向けの魚も5年前に比べれば高くなっていることは確かです。しかしこの程度の増収では漁業者にとって原油高によるコストアップは賄えないようです。生産者にも消費者にとっても厳しい現実です。

 季節はそんなことにおかまいなく春に向かっております。日差しは少しずつ明るくなり、南郷町の穀倉地帯では3月の田植をひかえ、来月の水入れと代掻きの準備のために、あちらこちらの田面や畦の枯草と燃やす野焼きが始まっています。去年の厳冬に比べればたしかに暖冬気味の冬ではありますが、南方型を自認している私にとっては、「春よこい、はぁやくこい」の1月でした。



                       第73号 平成18年12月31日

 穏やかな外浦湾を眺めて暮らした今年も暮れようとしています。外浦漁港の桟橋には正月を母港で迎えるために帰ってきた鰹船が9隻停泊しています。どの船も正月の飾りつけで華やかです。先端の葉を残した6.7メートルはある竹竿に日章旗、大漁旗、優勝旗などの満艦飾で彩られています。この飾り付けにも地域差があるのがようやく分かりました。

 ここから5キロほど北の目井津港には南郷町最大の南郷漁協に所属する鮪・鰹船が同じように帰ってきております。数日前に見た時には11隻が船尾を岸壁につけ、ずらり並んでおりました。テレビで各地の迎春の飾り付けの様子を紹介していました。目井津港の船飾りも映っておりました。竹竿と旗は同じですが、ここでは竿の途中に横木を結び、生の鯛を両側に吊るしていました。大きな真鯛でもったいないと思うのはセコイ消費者気質。ふんだんに扱っている漁師さんたちにとっては伝統が大切なのでしょう。その後で外浦漁港の飾り付けを確認に行きましたが、そんなもったいない事はしていません。

 今年は私が秋から初冬にかけて目の手術をしたぐらいで、夫婦とも健やかに過ごしました。最初に右目の扇状片切除を受けて白内障の手術に備えました。10月の末から2週間の入院手術で視力は0.3から1.2まで回復しました。満天の星空がはっきりと見えるようになりましたが、老眼鏡が手放せなくなったので良し悪しです。これで来年の免許証更新時の視力検査はバッチリです。

 宮崎県は今年の後半に談合問題で明け暮れました。最初は安藤知事が選挙指南役に5千万円を渡した、渡さないでした。それは伏線でその裏には恐喝まがいの事件が隠されていました。ととのつまりはこの脅かしに屈して工事を取らせるように天の声を叫んでしまったようです。「天の声」とはずいぶん古い言葉です。大手ゼネコンの談合に登場した言葉で、関西空港の埋め立て土砂採取工事などに使われましたが、このころが最後で死語になったものと思っておりました。ところがどっこいしぶとく生き長らえていたようです。選挙がらみのお返しに知事側から働きかけるという構図が同じなので、福島と和歌山、宮崎は官製の談合三兄弟と呼ばれているようです。こんな古い体質からはきれいさっぱりとおさらばしたいものです。

 古い体質といえば、自民党の古い体質が息を吹き返しそうな気配です。安部総理は道路財源について、閣議の後で閣僚たちに一般化を推し進めると明言しました。しかしそれは、用意したペーパーに目を落としたまま読みあげただけで、閣僚たちと目を合わすこともなく足早に席をたったと報じられています。これでは舐められるのはあたりまえです。結果は予想どおりの骨抜き法案になってしまいました。その後の為す事やる事、支持率低下はあたり前です。

 麻生外務大臣はもうすぐ俺だと喜んでいる事でしょう。こんな人よりも竹中平蔵氏が首相の座についてほしいと願っております。しかしご本人はまったくその気はありませんでしょな。平蔵さん、天下国家のために身命を賭してはいただけないでしょうか。


                       第72号 平成18年11月29日

 連日のように宮崎県の官制談合事件を報じております。ナンバースリーの出納長の逮捕も時間の問題のようです。ここにきても知事は関与を否定し、指示についてマイクが向けられると、ことさらのように作り笑いをして白を切っております。これに対して議会は不信任決議案提出の動きがありましたが、知事が伝家の宝刀である解散権をちらすかせると尻すぼみ。自民党が最大派閥である議会は時期尚早と、強制力の無い勧告などでお茶を濁しております。したり顔の知事の逮捕される日が一日も早くきてほしいと願っております。

 今年の外浦漁港は鰹船が母港へ引上げるのが早いようです。たしか、去年は正月に数隻しかいなかったと思いますが、もう7隻も停泊しております。正月までに出港するのか、そのままいるのか。われわれ門外漢にはわかりませんが、採算性が悪くなっているので今年の正月はゆっくりわが家でと思っているのかもしれません。そういえば小型ボートの繋留が減っています。鰹船の停泊する奥が小型船の船溜まりす。去年の外浦殺人事件で何度もテレビ画面に出た、水死体が浮かんでいた所です。ここには船外機付きの小型船がびっしりと並んでいました。だから酔っ払って落ちたにしても、漁師あがりなら必ず船べりに手を伸ばすはずで、こんなところで溺れるはずがないという噂をマスコミが聞きつけて騒ぎが広がり、警察の捜査に繋がった所です。今日見た限りでは僅かに6隻でした。これはなぜか判りません。

 わが家の月下美人は今月も減りながらも咲きつづけました。これもどうなったのでしょうか。今日は最後になるであろうつぼみがひとつ芽を伸ばし始めたところです。7月から咲きつづけた花数は最後のを入れてなんと111個です。まさに驚異。

 私ごとになりますが、両眼の白内障治療で、眼内レンズを挿入する手術で2週間入院しました。10月31日にまず右目の手術を受けました。数年前にうちのかみさんが受けた時には、眼帯がはずれるのに1週間かかりました。今度の病院では翌朝にガーゼの眼帯をはずし、ピンポン玉より一回り大きい透明プラスチックの半分をテープで止めるだけでした。驚いたことに元のままの左眼と色がぜんぜん違います。白濁していたのではなく、黄色のベールを通して見ていました。黄砂の世界で暮らしていたのです。世界は明るくくっきりと見えるようになりました。病院の屋上から見ると、遠くの山並みには尾根が幾筋も広がっています。こんな尾根があったのかと驚きました。だが良い事ばかりではありません。私は近眼で老眼の進行が遅く、めがね無しで新聞や英語の辞書が読めていました。これが普通の老人の目になり、とりあえずは百円ショップで買った老眼鏡のお世話になっております。いすれ眼鏡はどこだと探し回る事になるでしょう。



                       第71号 平成18年10月29日

 昨日から南郷黒潮ドーム球場で西部ライオンズの秋季キャンプが、第一クール30数名の参加で始まりました。このキャンプにはギッセルとグラマン両投手の参加も予定されていますが、やはり松阪は来ないようです。ちょっぴりさびしい気もしますが、来シーズンにむけて充実したキャンプであってほしい。

 今週はNHKテレビでご当地がやたらに取り上げられました。月曜日には鶴瓶と鶴太郎の日南市訪問の前編、夕方の地方番組で月曜から金曜まで南郷町を紹介していました。どちらも南国の穏やかな自然と人をメインにしていました。その中で南郷町の沖合い2.5キロに浮かぶ大島を取り上げた番組で、現在の島の人口は13人と告げていました。4〜5年前に新聞記事でたしか20数名だったと思いますが、わずか数年で半減しています。

 町営旅客船が目井津港から出ています。やれドック入りだ、台風接近だと欠航もかなりありますが、島へ渡るには、自前の船がない限り、この船のお世話になります。船賃は大人1人で往復8百円です。一度だけ、町主催の植樹に参加して島に渡った事がありました。乗船前にハイビスカスの苗を貰って上陸し、道々に植えていきました。去年の標識が残っていましたが、植樹は枯れていました。私が植えたのも根付いてくれるのか不安でした。島の中央の高台にあるキャンプ場で昼食をとり、灯台見物などをして、別の港まで歩きました。一日中歩き回ったような気がしましたが、どこに家があり人がいるのか、一言でいえば何もない島でした。年々高齢化が進み、不便な島の生活に堪えられなくなり、住み慣れた島を後にしたのでしょう。

 南郷町の人口は1万1千の大台を保ちながら、微増減を繰り返しています。しかし、地方過疎の例外に洩れず、メインストリートは人っ子一人という有様です。そんな中、地元集落の小さな食品店がひっそりと店じまいしていました。水中観光船の運行も民宿もやっていたのですが、観光船は昨年度限りでやめました。数日前に通った時にシャッターが下りているので驚きました。念のために数日後に行ってみましたがやはり閉っています。以前この店のチラシは時々入っていましたが、そういえば最近は見ていないようです。このチラシはデザインも内容もほとんど変わらないので、しぜんと見なくなりました。良い魚を置いているのですが、量り売りで、女房はどうも買いづらいようでした。そんなわけでしぜんと足の遠のいた店でした。

 これと同じような老舗の店もあります。越してきた1年ほどはよく買い物をしました。ただ、この店の魚も量り売りで買いづらかった。毎週土曜日に店外で魚市を開き、盛り付け売りをしていました。1杯、あるいは1匹で売られているとやはり買いやすい。ところがだんだんとマンネリ化していきました。いつ行っても鯵、鯖といかしかなく、手ぶらで帰るようになりました。

 このように寂れる店もあれば、以前からやっていながら、客を引きつける工夫を凝らして繁盛している店や、新規開店ではやっている店もあります。やはりやり方次第で、勝ち組みと負け組みに明暗が分かれるようです。

 わが家のようにひっそりと暮らしている家庭にとっては、魚が新鮮で安く、温かくて暮らしやすい南郷町は大好きです。



                       第70号 平成18年9月30日

 綿のように揺れるすすきの穂や真っ赤な彼岸花に秋の訪れを感じます。先月にも書きました月下美人は9月も咲き続け、18日には17個の花が咲きました。これまでの新記録になります。もちろんその芳香に一晩中酔いしれました。

 私ごとになりますが、今月は目の手術で入院しました。いよいよ10月の末から両眼の白内障手術を受ける予定ですが、その前段階の翼状片摘出手術で3泊4日の入院でした。手術を受けた病院はここから75キロ離れた県北、都城の宮田病院を選びました。

 大阪から移る前に病院などについても調べました。南郷町には公立総合病院はありません。私立病院はありますが、内科と外科、胃腸科、放射線科などです。歯科は医院が幾つもあります。しかし、眼科と皮膚科はありません。お隣の日南市には県立病院があります。脳神経科まで備えた総合病院です。外観は6階建ての大規模病院なので大いに安心しました。ところがこの病院、箱は立派ですが中身のお粗末な病院でした。

 平成14年の秋、大腸憩室炎で39日間入院しました。この事は南郷通信にも書きましたが、大腸の内科的な病気です。ところが私の主治医は外科医でした。つまりこの医者が胃腸の専門医という事です。おそらくガンの外科手術医だと思いますが、胃腸専門の内科医が居ないということでした。下血が収まったのを見計らって大腸内視鏡検査の日がきました。運悪くこの朝に下血がありました。下血の時の内視鏡検査は禁忌のはずなので延期を申し出ました。ところが主治医は禁忌ではない。今日しなければ次は2週間後になると今日の検査を勧めますが、決定はあくまで患者本人だ言いました。仕方なく受けましたが、案の定出血で内部の状態はわからずに、2週間後の再検査となりました。

 ふつう内視鏡の後は画像か写真で状態の説明があるはずです。内視鏡操作医に聞きましたが、主治医に聞いてくれと言われました。主治医はカルテに挟んである写真を見せてはくれませんでした。ガンやポリープはなかったのかと聞きますと、検査の時に聞いていたと思ったとぬかした。また、内視鏡検査は2回とも拷問を受けるような激痛の連続でした。後で調べてみると、この操作医は曲がりくねった腸管壁に内視鏡のチューブを当てないようにする、軸保持短縮法のスキルを持っていなかったようです。

 眼科で通院した時も、前回に比べ白内障の症状はどう変わったのか、あるいは変わらなかったのかという説明はほとんどといっていいくらいありません。「もういつ手術してもいいですよ」と言われた時も、視力がいくらに落ちている、白濁がどれくらい進んだからと具体的な症状の説明抜きでの進言でしたので、これに従う事は出来ませんでした。それ以後2年間は受診せず、いよいよかなと自分で決めました。それは来年に運転免許証の更新を控えているからです。

 県立病院は論外です。宮崎市にはいくつもの病院があります。白内障の手術で定評のある私立病院に聞きますと、両眼を手術する場合の入院日数は5日でした。都城の宮田病院は2週間です。じゅうぶんに治療期間を取った治療をしたいので宮田病院を選びました。手術予約は6月に入れたのですが、待たされて10月末の入院が決まっていました。事前の診察で左目に翼状片があると診断されました。これは目頭側の結膜(白目)の細胞が増殖して瞳孔に侵食する、一種の良性腫瘍です。これを先に取り除く必要があるので今月の4日からの入院でした。

 メスで増殖部を取り除き、再侵食を防ぐために良性の結膜を移植する手術でした。術中に何回かの痛みがありました。最初のチクッとくるのは我慢できますが、何回も続くと目の玉は自然に避けようとして動きます。医者は動くなと叱りますが、勝手に動くのでどうしようもありません。これには個人差があるようで、2日後に入院した人が同じ手術をしましたが、ぜんぜん痛くなかったそうです。

 退院後もしばらくはゴロゴロしていたのも直り、来るべき入院に向けての心構えと整えているところです。





                       第69号 平成18年8月31日

 今年の夏は短かった。南九州の梅雨明けは例年よりも13日遅れた。その分、夏が短くなってしまった。朝夕の風が明らかに真夏のものではなく、寝苦しい夜もなくなったようです。黒潮に乗って西南海から日本列島にたどり着いた海人の末裔と自認している私にとって、去りゆく夏には哀惜の念を惜しまず、訪れる冬将軍の荒涼たる冬枯れの荒野に寂寞とした思いをいだいております。

 今年の台風10号は南郷町にはそれほどの被害はありませんでした。去年の台風14号は阿蘇山系の町や村に大きな災害をもたらしました。速度が遅く、居座った時間が長かったので3日間に1300ミリを超える雨が降りました。これは関係者には想定外の記録的な雨量で、土石流の大発生、河川全域に大水害をもたらしました。この時はわが家の雨戸のない南側のガラス窓が風圧でわんわんとしわり、今にも吹っ飛ぶのではないかと恐れました。

 これに懲りて外側に張るベニヤ板を用意しました。台風10号は速度が遅く、南九州に来るまでに3日以上かかりました。情報によると980hPaでそれほど風は強くない。速度が遅いだけ滞留時間が長く、その間の雨量が心配でした。進路を見ていると南九州直撃の公算が大きく、霧島山系に去年のような豪雨があれば、南郷町にも被害が及ぶ可能性があるので心配しました。台風はゆっくりと進み、まだか、まだかと気をもみましたが、8月18日午前1時ごろに宮崎市付近に上陸し、九州を縦断して翌19日の午前5時ご過ぎに福岡県宗像市付近から玄海灘に抜けました。その間の滞留時間は28時間でしたが、雨量は日之影町で516ミリでした。これは去年の台風14号の半分以下で、激甚災害を起こすほどではありませんでした。我が家では植木鉢を下し、物干し竿をはずしておきましたが、それさえも必要がなかったほどでした。

 今年はどういうわけか月下美人の花盛りでした。8月中に50個以上咲きました。盆前には一晩で14個咲き、去年の記録を更新しました。その次の晩も11個、二晩続けてその下で寝ました。クーラーはないのですが部屋を締め切っていると、吉祥天の樂の音に舞う天女の芳香にひたっているような幸せな夜を過ごしました。今でも1つまた1つと咲き続けておりますが、現金なもので、1つでは物足りずにベランダから入れようとはしません。

 今日で1年の三分の二が終わります。年々、歳々その足は早まっております。今を限りに生きることだけを考えております。


                       第68号 平成18年7月30日

  いや、今年の梅雨は長かった。最初は山陰から北陸に、続いて岐阜から長野に豪雨禍をもたらした梅雨前線は、22日には北九州、そして南部にかけて居座った。そのために南九州も鹿児島県と宮崎県南部山沿いに千ミリを超える雨を降らし、水と土砂災害を引き起こした。幸い南郷町にはさしたる被害はなかったが、ここより北の平野部には浸水被害が出た。

 去年の台風14号の時は3日間ほどの間に1300ミリの降水があり、宮崎県北部山沿いから下流域の平野部全体に甚大な被害をもたらた。現在でも観光地、高千穂峡に通じる高千穂鉄道は、鉄橋が2つ流されて復旧のめどが立たず、廃線の岐路に立たされている。川も褐色に濁ったままで、下流の藻が育たず、鮎の成育が遅れている。そのために鮎漁の漁協がたいへん困っている。河口部はシジミが全滅して収入ゼロの所もある。

 今日、ようやく中国、近畿から北関東にかけての梅雨が明けたようだ。南九州の梅雨明けは26日ごろとされ、平年よりも2週間ほど遅い。このために野菜の値上がりが激しい。4月、5月も天候不順で、南郷町の早期水稲の生育を心配していた。最後の大雨のため、稲刈りもようやく始まったところだ。これも1週間ほど遅れているそうだ。もっとも、じっくりと育てる北の方のおいしいお米に比べれば、どうしても促成の嫌いはあるので味の方が心配だ。

 このごろスーパーの魚売り場にうるめイワシの子が出廻っている。こちらに来てから初めてではないかと思う。地どれの10センチほどのイワシだが、鮮度は抜郡。百円で二人分の蛋白質が賄える。イワシは高級魚の仲間入りをしたと言われていたが、ひょっとして大発生の年になったのだろうか。それとも、鰹・鮪船のエサの需要がなくなったからなのだろうか。外浦漁港での鰹船の出入りが例年に比べて少ないように感じる。母港にちょっと寄り道する余裕もなくなったからかもしれない。新聞報道によると、鰹の浜値は下がる一方なのに、操業コストは原油高によりうなぎのぼり。採算不良で廃業続出と伝えられている。この数ヶ月、岸壁に停泊したままだった1隻の鰹船がいつの間にか居なくなっていた。漁に戻ったのならいいが、わたしゃ売られてゆくわいな どこか外国へ行ってしまったのでなければよいが。

 こんな不景気な世相にはなんの関係もないとばかりに、梅雨の明けた日向灘は美しい。紺碧の空と海が水平線で一つになり、大きな先乱雲が立ち上っている。浜風か山風か、とちらかの風が一日中吹きぬけてくれるおかげで、室内にいるかぎりはクーラー要らずの夏も、今年で6度目になる。



                       第67号 平成18年6月29日

 もうすぐ梅雨も明けるのでしょうが、ここ南郷は連日の雨です。わが家の前を国道448号線が通っています。宮崎市と指宿市を結ぶ全長232キロ、片側1車線の道路です。重複部分が多いのでわたしの実感としては宮崎からの国道220号線と分かれるJR南郷駅前が起点と思っております。日南フェニックスロードと呼ばれている、文字どおり風光明媚な観光道路です。昔は観光バスが列をなして行き交った道も、今は宮交バスが空気だけを運んでいるのが日常風景です。しかし地元の人たちにとっては唯一の交通の道筋でもあります。去年の台風14号で片側が海側に崩落して1車線通行になっていたところが、5月からの長雨で全面通行止めになってしまいました。近くに2つの集落があり、日常の生活道路として使えなくなりました。国土交通省が調査した結果、当初の崖側に仮橋を作る案は退けられ、山の中に新しい道路をつくることになりました。幾つものトンネルが必要で、その道路が出来るまでに使う林道も作るそうですが、それでも数ヶ月はかかります。おそらく百人ほどの人口とは思いますが、陸の孤島となった時には自衛隊が漁港の施設をヘリポートに使って駆けつけるそうです。もうしばらく我慢してもらうしかありません。近くには有名なサーフポイントの恋が浦もありますが、サーファーたちは遠回りして帰ってください。

 南郷の早期水稲は1週間ほど前に穂が出ていましたから、もう花が咲いていることでしょう。7月の終わりから8月にかけて刈り入れますので台風の心配はありませんが、今年は5月の天候不順が生育に悪い影響を及ぼしていないか心配です。素人の私には穂を見ただけで豊作なのか、平年並み以下なのかはわかりません。おいしい新米が食べられる事を祈っております。

 驚いたことに月下美人の花が咲きました。秋の花とばかり思っていたので、水やり肥やりは怠っておりません。25日の朝に、前夜咲いた大輪のしおれを見つけました。その他にまだ2つ芽があり、これは昨夜開いてその芳香に堪能しました。まだもう2つ小さい芽があります。これからどんどん出てくれるのではないでしょうか。ちなみに去年作った月下美人酒のラベルを見ますと10月15日です。これは最後の花を使ったので、それまでの20日ほどの間に40個は咲きました。この月下美人酒は大失敗です。これだけの芳醇な匂いを漬け込めば、さぞかし桃源の美酒が醸されるだろうと期待しておりました。ところがいつまでたってももやしのような青臭い匂のままです。わが家の大酒豪(私がまったくの下戸)を任じているかみさんも手を出しません。

 それにしても、日銀の福井総裁は往生際が悪い。NHKが報道を控えることによってだいぶ助けられています。追手の追及をかわしながら逃げ回ってはおりますが、もう満身創痍。名もなき雑兵の手にかかるよりは、もはやこれまでと潔く自決したほうが、武士として名を残す唯一の手段だろうと思います。もっとも、金の亡者に成り下がっては”ものもふ”とは呼ばないでしょうね。



                       第66号 平成18年5月27日

 五月晴れという言葉はどこへいってしまったのかと思うほど今月の天気はひどかった。窓から見える外浦漁港の突堤いっぱいに張り渡された鯉のぼり。湾口に広がる日向灘と一体となる群青の空に泳ぐ姿をビデオに収めようと待っているうちに、とうとうその機会を逃してしまいました。南九州を代表する名山、韓国岳の初夏をいろどるミヤマキリシマ群生の開花は1週間ほど遅れ、株数も減っております。低温で、日照時間も平年の半分以下、青果類の値上がりが報じられております。ふつうの田植は6月の梅雨入りを待って行われますが、南郷町の早期水稲は3月に済みました。その後、苗の生育に必要な日照と水温が不足しているので作柄は例年以下になるだろうと、素人の私でも予想できます。これが通常の稲作にも影響が出ないとは限りません。それを見越したかのように、昨日発表されたコメ価格センターの昨年産米の第12回落札価格は7ヶ月ぶりに1・2%上昇しました。そんな中で南九州の梅雨入りが始まったようです。

 アメリカの海洋大気局(NOAA)は昨年からラ・ニーニャ(女の子)現象が発生したと発表しました。これは南米ペルー沖の太平洋赤道付近の海面温度が下がる現象で、温度が上がるエル・ニーニョ(神の子、男の子)と共に世界的な気象変動をもたらします。この冬の記録的な豪雪もこれが遠い原因の一つと考えられています。ラ・ニーニャのおかげで今年はハリケーン・カトリーナや台風14号のような被害は少ないかもしれませんが、穀物生産量が減少する上に、中国の穀物買付量増大の影響で価格変動が起こる可能性があります。

 今年はツバメをあまり見かけません。私の住んでいる集合住宅でも玄関扉上の電気メーターに巣を造ります。どの家もフン害防止のために障害物を置きます。動物愛護精神にあふれるご家庭の玄関下を見ると今年も汚れているのでゼロではないようです。よそに移ったから見かけなくなったのか、飛来数が減ったのかはよくわかりません。そういえば外浦湾上に飛び交っていたトンビやカモメも少なくなっています。群れるように輪をかいていたトンビはちらほら、カモメはほとんど見かけません。これは水中観光船と関係があるとにらんでおります。昨年度から運営主体が変わりました。この施設はもともと町有でその運営を有料で民間に委託しております。それまでの運営は外浦で食品スーパーと民宿を営んでいた店でしたので、スーパーの魚や肉の廃棄物を使って餌付けをしていました。夕方になると船着場で餌を撒いていたのでころあいになると鳥たちが集ってきました。観光船が桟橋を離れるとそれに続き、日向灘に出て観光スポットからの帰り道でも撒き餌をして見せ場をつくっておりました。そんな努力にもかかわらず、かんじんのサンゴ礁が減りだして熱帯魚が前のようにいなくなりました。以前、大阪で生まれ育った娘がダンナや孫たちと来た時に乗せました。桟橋に帰りついた一言が「これで2千円とは高いな」でした。黒っぽい熱帯魚を10匹あまり見かけただけで、私もがっかりしました。観光客たちの失望から客離れを招き、これ以上儲からない、あるいは赤字の事業を続けられないと辞退したのかもしれません。

 新しい会社に替わってから、観光船が桟橋を離れるとすぐにスピーカーで案内する声が窓から聞こえるようになりました。以前のシーズンオフの平日には定刻になっても客がこないので出港しない場合がよくありましたが、スピーカーの声からするとこれが少なくなったように感じます。船着場での餌付けはしていませんが外洋ではやっているようです。いちばん効果があるのは観光スポットに着くとダイバーを潜らせて魚に餌付けを始めたので、ハリセンボンも来るようになり、カラフルな熱帯魚も見られるようになったとテレビで報じておりました。このような地道な努力を重ねていくことで、じょじょに業績が向上している様子が見受けられます。


                       第65号 平成18年4月30日

 五月晴れも近いというのにここ10日間ほど、日ざしはあるのに青空が見えません。外浦湾の外、日向灘の空が黄色くかすんで見える日が数日続きました。案の定、テレビの気象情報で黄砂の飛来を告げていました。こんな中でも例年どおり漁港の突堤いっぱいに鯉のぼりが赤黒とりまぜて20匹以上泳いでおります。その中には鰹のぼりが3分の1近くを占めているのも鰹漁港らしい風景です。南から黒潮にのって屋久島あたりまでのぼってきた鰹漁は最盛期を迎えております。だが鯉のぼりの下に鰹船が1隻停泊して動かない。すぐに出港する時は舷側をつけるのですが、この船は船尾を突堤に繋留しております。これは長逗留を意味し、おそらく廃業したか、今年の出漁を諦めたのでしょう。

 南郷町には南郷(目井津)、栄松、外浦の3つの漁協がありますが、最大の南郷漁協に所属する遠洋はえ縄鮪船23隻のうち半数近い10隻が去年の後半から今年にかけて廃業したとテレビで報じておりました。言うまでもなく魚価の低迷と原油などのコストアップでこれ以上赤字操業を続けれなくなったためです。4月最終28日の原油価格は世界標準のWTI(ウエスト・テキサス・インターメディエイト:西テキサス軽質油)で1バレル71.88ドル、日本が買っているドバイ中質油は64.80ドルで円換算7,407.29 円です。これは2年前の同じ日の$32.40、3,532.90 の倍以上になります。現在の情勢ではたとえ原油価格が下がったとしてもWTIが30ドル以下の水準に戻ることは期待できないだけに、なんとも胸の痛む思いです。

 農林漁業の他に南郷町のめぼしい産業は焼酎ぐらいで、小規模の電子組み立て業がおまけにある程度です。農業は400%以上の関税に守られた1ヘクタール規模の稲作が主流です。これを数百ヘクタール規模に集約して生産性をあげ、世界標準のキロ80円にするためには、文字通り自民党をぶっ壊さない限り実現しません。林業は祖父たちが営々とし植林した杉山が外国材に押されて維持不能となり、大部分は間伐や下草刈りも放置されて荒れるにまかせ、スギ花粉だけを生産しています。そのほかの農産物にはピーマン、茶、果実と花卉の栽培があります。なかでもマンゴーが南郷特産果実の一つです。これが手間隙かけているせいか、わたしのような下々の口にはとても入らないくらいべらぼうに高い。贈答用として2個入りの化粧箱が5千円以上。あるときには「特産完熟」というように銘打って一箱2個入りが2万円を超える価格で都会地に出荷されたとテレビ報道がありました。これを見たときにわたしは思わず舌打ちしました。こんなやり方をしていたら競争に負けてしまうのは目に見えている。りんご並に1個100円の普及価格がわたしの持論です。この努力を怠り高級路線をとっていても未来はありません。

 一昨日、28日の日経新聞に「南国産フルーツ、売り場の主役に」という記事があり「マンゴーが中心、価格は下落」と出ていました。マンゴーの売上は前年比で大きく伸びており、イオンは傘下のジャスコでメキシコ産398円、タイ産196円、フイリッピン産100円で売り出していました。ここに宮崎産を3,000円で並べてみても誰が買うかということです。ところがこのマンゴーの販売地区には九州と沖縄が除かれていました。どちらもマンゴーの産地を抱えているので産地配慮という自主規制が働いたのでしょうか。

 考えてみると、繊維でも自動車でも自主規制を行なう輸出側は消費国の事情という外圧を受けてやもうえず行われておりました。単なる推測ですが、全国展開している流通ジャスコが自主規制するのは、同じく全国展開している生産JAからなんらかの外圧が加えられた可能性も否定できないという推論が想像できます。そういえば宮崎県、少なくとも日南、南郷には南半球産の安い南瓜がありません。同じく、長野県産の人差し指ほどの太さで1メートル近い「蕗」の代わりに、ストローか鉛筆ほどで30センチ前後の「つわぶき」だけしかありません。これもなんらかの自主規制のためだろうかという疑いが出てきました。



                       第64号 平成18年3月31日

 昨日までの3日間は15メートルほどの風が吹きすさびました。少し北の観測地点の油津では30メートル超えの瞬間最大風速を記録しました。5年前にこちらに移ってきた4月にもこんな風が続き、なんと風の強いところだと驚きました。桜はちょうど八分咲きから満開にかかろうとする時で、なんとか持ちこたえていましたが、早咲きのものは桜吹雪を散らしていました。

 今月の初めから始まった田植えは終り、褐色の水田に芝生に毛の生えたような苗が心細げにそよいでいましたが、もう田面(おも)をうっすらと緑色に変えるまでに育っております。私が住んでいる町営の集合住宅にはブランコやシーソーに滑り台などがある小さな児童公園が付いており、その一角に藤棚があります。白く塗られた鉄骨に載った4畳ほどの棚一面に枝を伸ばしております。曲がりくねって絡みあった様子は悪魔の城の生垣のようにも見えます。その枝いっぱいに蓑虫のようなものが付いております。よく見るとそれは固く閉じた花のつぼみでした。一枚の葉も出ていないうちから、初夏の開花への営みを静かに進めております。薄紫のベールを広げたような彩りで目を楽しませてくれる日はそれほど遠くはありません。

 外浦漁港のかつお船の出入りは激しくなっております。入港しても3日とはいません。早いのは翌日には南西諸島あたりの漁場へと出ていきます。消費者の実感としては、5年前に1匹50円でびっくりするほど大きな飛び魚が買えました。刺身に舌つづみをうち、眞子の煮付けを堪能しました。最近は同じぐらいのが200円以上です。この先シーズン入りして安くなったとしても100円以下にはならないでしょう。値段、種類共に資源枯渇の影響はまぬがれないように思われます。テレビで南郷町のまぐろ漁業が採算割れのために廃業する船主が出始めたと報じていました。漁獲量や漁獲高の前年同月比では下がっていません。むしろ若干は増加しております。しかし04年1月のドバイ原油の円建て価格はバレルあたり3000円ほどでしたが、今年の初めには6500円に値上がりしております。燃料と共に消耗する漁業用品は石化製品のかたまりですから、水揚げ額が少しばかり増えたといっても焼け石に水なのかもしれません。先日大阪へ行ったついでにデパ地下の鮮魚売り場をのぞいてみました。こちらで高くなったとぼやいているのが申し訳ないような値段札が付いていました。

 そのデパ地下で長野県産の1メートル近くある蕗を幾束か買って宅配便で送りました。こちらのは芋のツルほどの細くて短い”つわぶき”しかありません。薄味の蕗の煮付けを黄色の八寸の底に盛り付け、これもまた無いのでいっしょに買った、木の芽を添えて春の香を満喫しました。



                       第63号 平成18年2月27日

 16日の朝8時過ぎに外浦漁港の突堤に停泊していた漁船から火が出ました。ブリッジの後方あたりから真っ黒い煙が上がり、その中から紅蓮の炎がヘビの舌のように見え隠れしております。機関室火災のようですが、突堤には白い回転灯の付いたバンがいるだけで、防災無線からの通報はまだありません。そのうちに1台、また1台を分団消防車到着し消火活動を始めました。とうとう隣の日南市から大型消防車とタンク車も来ました。放水が始まると煙は徐々に白くなり、また勢いを盛り返した黒煙に変わり、騒然としたなかに赤い回転灯を点滅させた消防車の赤が炎を打ち消していきました。日南市の消防署からは片側1車線の曲がりくねった海岸道と峠越えで10キロほど。いくら急いでも15分はかかるでしょう。このころになってようやく防災無線から緊急出動のアナウンスがありました。けたたましいホイッスルの音に続き、「緊急連絡、どこそこで何の火災発生。第3分団は出動してください」とがなりたてる、これまで何度となくたたき起こされたやつです。たとえそれが草木も眠る丑三つ時であろうとお構いなしに鳴り響くのですからたまったものではない。後日の新聞報道では外浦漁協所属のマグロはえ縄漁船19トンでした。23日にはいなくなりましたが、廃船の運命のようです。

 南郷町は西武ライオンズのキャンプ地です。キャンプのメッカになっている宮崎県、野球やサッカーチームの春季キャンプは大繁盛。その動静は逐一メディアで取り上げられていますが、テレビに関するかぎりこの5年間で今年ほどライオンズのニュースが少なかったのは初めてです。なんと日向市でキャンプを張っている欽ちゃん球団よりも数段低く扱われていました。もともと地味な球団カラー、唯一の広告塔ともいえる松坂投手はワールド・ベースボール・クラシック2006の練習のために途中から抜けたせいもあるでしょうが、南郷町民にとってはやり切れません。宮崎の民放テレビでキャンプ中の球団の紹介番組がありました。真ん中に3球団の帽子を飾り、それを挟んで元プロの解説者とアナウンサーの対談形式でした。日南市でキャンプ中の広島カープの赤い帽子を真ん中に、ジャイアンツとホークスの黒い帽子を両側に置くだけで、ライオンズの空色の帽子はありません。レイアウトと配色でいえば、3つで真ん中が赤、両側が黒が収まりはいいかもしれませんが、無視されたライオンズは話題にものぼりませんでした。なんだこれは!

 私ごとになりますがこれも腹に据えかねる。銀行のATMで通帳がいっぱいになったので、カウンターで更新手続きをしました。ちょうど昼時で閑散としていました。番号札の先客はゼロです。それでも5分以上待たされました。通帳を渡してまん前のイスで備え付けの新聞を広げて待ちました。かなり経っても呼ばれません。後からきた人が次々に去り、無人になっても声がかからない。しびれを切らして訊ねました。すると前にお呼びしましたという答えが返ってきた。ちなみに私は軽度の老人性難聴です。高音域が弱く若い女性の電話の声が苦手です。補聴器をつけていなかったにしても3メートルと離れていないので聞き漏らすはずはないと思うが、これは私の独断の可能性も否定できない。そういえば2〜3年前にもあった。皮膚科医院の窓口で薬と会計待ちの時だった。受付嬢の仏頂面に文句を言った。今度の女子行員は笑顔で答えてくれたが、慇懃無礼だと感じた。だが言いたいこと「来なかったらもう一度呼ぶべきだ。私があなたならこんな空いている時はだれがどの用件で来たかは頭に入っている。来なかったら必ずもう一度呼ぶよ。客の満足度を損ねないのがサービス業の基本だ。その意味では失格だ。私もいろんな人を使ってきたが、もしあなたの上司であれば即刻配置換えだ」とは呑みこんで、「そうかなあ? 聞き漏らすはずはないと思うが」と言うのが精一杯だった。大阪ではこんな経験はなかったので、たとえ聞き漏らしていてももう一度呼ばれていただろうと推測する。考えてみるとイントネーションが違うからはっきりとよそ者とわかる。地元のひとたちの黒と灰色を基調にした服装よりもやはり派手だ。おまけに見るからに傲慢不遜な面構えのジジイ。ご当地の娘さんたちにとっては懲らしめの対象になるのかもしれない。

 違和感といえばまだある。町が行なう肺と胃の集団検診のレントゲン車で受診する時のこと。外浦地区の受付場所へ時間前に着いた。みんなばらバラバラに待っており、受付が始まると思い思いに受付に進んでいるように見えた。もうそろそろ私の番だろうと思って進むとそばの人から「あんたはまだ後だ」とい言われた。番号札もなく並んでいるわけでもないのだが、順番が判らないのは私だけで、ほかの人たちはみんな顔見知りで順番はちゃんと頭の中に入っているらしい。次からは締切時間前に行くようにした。退職後10年は豊中市に住み続けたので、その間は市の健診を受けていた。通知葉書で受診日と大まかな時間が分けられており、番号札順に受付を済ますとレントゲン車の前に並んでいました。もちろん男女は時間帯が別でしたがこちらでは区別なしです。おかげで目の保養と思ってもほとんどがじいちゃんばあちゃんなので、どちらもそれほど気にならないのかもしれません。

 今月の内容を読み返してみると不平不満の羅列に終わっている。これを読んでくださる方々に不快の念を与え、精神衛生上まことによろしくない。平身低頭してお詫びするとともに、木漏れ日の中をわたるさわやかな風の中、せせらぎが心地よいまどろみへといざない、ゆったりとした境地をもたらすような記事(これが書けりゃあ飯の種だよ)で紙面を飾るべく努力いたします。



                       第62号 平成18年1月30日

 12月が極端に寒かったおかげで今月はそれほどつらくはありませんでした。この異常気象は今月にはヨーロッパに広がり、モスクワ市民はエネルギー不足のために凍えています。「北極振動」という北極寒気団が南下する地球規模の気象現象のためらしいが、これは南米ペルー沖の海水温度が低下する「ラニーニヤ現象」が原因だと判りだしている。ラニーニヤはスペイン語で聖なる男の子という意味、エルニーニヨが女の子でこちらは暖かくなる。男の時はその次の夏が暑いらしい。異常寒波で暖房機や冬物衣料が儲かったように、こんどは飲料、クーラー業界はてぐすね引いて待ち構えていることだろう。

 南郷町の田んぼではもう田植えに備えて野焼きが始まりました。あぜ道の雑草を焼いて害虫を駆除すると同時にカリ肥料の補給にもなります。その跡にはつくしん坊が顔をのぞかせていました。そのさなかに保険金殺人事件の刑が確定しました。夫の保険金目当ての犯罪に妻、長女と知人に判決が下されていましたが、知人は刑期が長すぎると控訴した。二人は控訴せずにそれぞれ18年と12年の刑に服することになりました。

 日南市、北郷町と南郷町の属する南那珂郡には専門高校が3校あります。県教育委員会は将来の高校進学数などの趨勢的減少を見越して3校をひとつにする県立高校再編整備計画をまとめております。日南工業、日南振徳と南郷町にある日南農林の3つを日南市の日南工業に統合する計画です。これに対して南郷町は何とか存続を願って「南那珂地区総合専門校を南郷町に誘致する会」を結成して存続運動を開始しました。しかし、人口、情報、インフラの集積度が明らかに違う南郷町にこだわるのは手前勝手のように思われます。だが20日には決起集会を開いて気勢をあげ、阪元町長は6.400人の署名簿を安藤知事などに提出して陳情運動を繰り広げております。決起大会は夜にコミュニティセンターのホールを満員にして行われました。防災無線放送を通じて参加を呼びかけていましたが、その様子がテレビに出ました。参加者全員が反対の鉢巻を締めて「ガンバロウー」とこぶしを振り上げていました。あの鉢巻はどうなるのだろう。みんなに渡しっぱなしになるのか、それとも後で回収するのだろうかとセコイことを考えていました。

 南那珂といえば早々と離脱を表明した串間市を除き、平成の大合併で日南市に統合される見通しでした。ところが北郷町の議会が1票差でこれを否決しました。リコール寸前になんとなく芝居じみているように思われますが、町長と全議員が辞職し、その選挙では合併賛成派が多数を占めました。新町長は議決を尊重すると言っていましたが、その後の合併の動きはピタリと止まったままです。おかげでわたしの住所は「南那珂郡大字」がくっついたままです。再選挙をやって住民のガス抜きをしておけば、この合併問題はとうぶん不問にできると誰かが考えたのでしょうか。市長と町長二人や議員さん方全員、そして行政機関は温存されたままみんなハッピーになっています。過重負担を強いられつづける住民を除いて。


                       第61号 平成17年12月31日

 いやほんとに今月は寒かった。南方系を自認している私にはこたえました。22日の朝、カーテンを開けると前の駐車場の車の屋根が真っ白です。その先の菜園も白く覆われていました。こんなことはこちらに来てから初めてです。それもそのはず、宮崎市で12月の積雪としてはじつに60年ぶりの出来事でした。北極寒気団を運ぶ偏西風が南に蛇行したために、気象庁の暖冬予想を見にくつがえしでしまいました。なにが原因なのかは今後の調査にゆだねられています。

 夏は涼しく冬暖かいわが家ではエヤコンはありません。暖房器具は電気コタツだけです。それもこたつ布団がかけてあるだけでじゅうぶんでした。スイッチを入れるのはひと冬に数えるほどでした。それが今年は毎晩入れております。ふだんの年と違っているのといえば、なぜか窓の結露が少ないことです。こんなに寒いと窓ガラスはべったりと濡れていました。ところが今年はカラカラ、あったとしてもほんの薄化粧程度です。外気温に比例して室内の温度も下がっているのか、あるいは乾燥続きのせいで湿度が足りないのかもしれません。冬が早くなっただけ来春が早まるのであればありがたいのですが、蛇行が早く戻ることはおそらくないでしょう。まだたっぷり2ヶ月以上も厳冬が待ち構えていると思うとうんざりします。

 外浦魚港にはかつお船が7隻停泊しております。どの船も6〜7メートルほどの、先端の葉叢を残して枝を払った長い竹竿に船識旗、大漁旗などをかかげて正月を迎える準備をしております。漁協所属の船は15隻ですから、半数以上は洋上で正月を迎えることになります。地元のテレビではよく正月風景として漁協の船舶無線で家族たちとの年賀のやり取りをニュースとして取り上げていました。携帯電話にはワールドワイドのものがあるので、それを使う船員さんたちもいることでしょう。お隣の目井津港は南郷町でいちばん大きい港ですが、まぐろ船、かつお船が15隻繋がれて岸壁はほぼ満杯です。どの船にも鮮やかな旗を翻している光景はじつに壮観です。おそらくここでも半数近くは洋上正月を迎えているのでしょう。

 今年は台風14号が宮崎県に大きな災害をもたらしました。9月3日〜6日までの3日間に北部山間部(南郷村神門)では年間降水量の3分の1を超える1300ミリに達した、記録的な集中豪雨でした。この水量がいっきに下流平野部に流れ込んだので、流域に大きな水害が発生しました。また暴風では南郷町のお隣の日南市油津で最大瞬間風速47.6メートルを記録しました。わが家の窓には雨戸ありません。海側のガラス窓が強い風の時に風圧で何度もしわりました。停電の中、ガラス窓が吹っ飛ぶ恐怖におののいておりました。このように台風多発、記録的な大雪などが重なると異常気象という言葉が浮かんできます。

 おかしいことといえば、今年はあたり前の大前提が崩れた年でもありました。”士”の付く職業は勝れた専門知識と高い倫理観を備えているがゆえに、高い報酬も約束されているものと考えていました。弁護士、会計士、建築士、それに医師などの一部の面々があざといやり口で世間を騒がせた年でもありました。こんなことは今年限りでなくなってほしいものです。

 一陽来復、どうかよいお年をお迎えください。



                       第60号 平成17年11月29日

 今回で南郷通信は60号をかぞえることができました。下手な文章を性懲りもなくこねくりまわし、自己陶酔にひたっている耄碌ジジイにお付き合いくださり、まことにありがとうございます。

 今月の初めからキャンプインしていた西武ライオンズが20日にひっそりと帰っていきました。もちろん熱烈なフアンはお別れセレモニーに駆けつけたとは思いますが、テレビでは読売ジャイアンツとソフトバンク・ホークスの終了だけが取りあげられていました。今年の西武ライオンズは優勝も逃がしたし、もともと地味な球団カラーのせいか、オフではニュースにもならなかったのでしょう。息子たちが第2週末に南郷に来てくれました。宿は難しいだろうと思いながら南郷プリンスホテルに予約を入れると、すんなりと取れました。春のキャンプの時はライオンズへ貸切になるのですが、秋季キャンプでは一般宿泊も受け入れていました。泊まった翌朝の6時過ぎ、まだ夜の明けきらぬころから、選手たちはプライベートビーチに出てダッシュや発声練習をしていたそうです。

 秋祭りも終り、外浦の港にも正月の気配が伝わってきます。鰹船の入出港は夏ほどは頻繁ではなくなりました。それでも接岸して早ければ2〜3日、遅くとも10日もあれば出港していたのが、月末が近づいて2隻が停泊しました。それも舷側で接岸するのではなく、艫(船尾)を中央突堤に向けて繋留しています。これは長期停泊を意味し、母港で正月を迎えようとする繋ぎ方のように見えます。これからこの繋ぎ方で停泊する鰹船が増えていくことでしょう。外浦漁協には11隻の鰹船を含めて15隻の大型船が所属しています。漁協の事務室のボードに船名表があります。現状を示す欄には空欄が多く、数隻にだけなぜか「調査中」と書き入れられています。それは停泊数とも出港数ともあいません。聞きたいのは山々ですが、漁協のデスクに座る屈強な面構えにひるんでしまいます。

 鰹の漁獲高は年々減少傾向にあります。しかし魚価は外国産がどんどん入ってくるので競争が激しく、値上がり幅は少ないままです。反対に燃料や石化製品を多く使う漁業資材の高騰が激しく、採算は年々悪化傾向にあるそうです。そのためにひどい時には経費も出ない航海もあるそうです。これが出漁のたびに赤字という状態が続くようになるとたいへんです。また、後継者難にも直面しております。前に聞いた話ですが、対岸の栄松は近海鮪漁の港で、大正年間の最盛期には全国から漁師が集まり、3ヶ月で役場の職員の2年分を稼いだと言われていました。今の若者には鰹船の漁労員志望者がおらず、年々高齢化しております。そのために技術研修の名目でインドネシアの青年の労働力に頼っているのが現状です。なんとかならないものかと気をもみますが、門外漢の私はこれといった解決策のメドはありません。

 そういえば、南郷通信を発信しはじめたころは、外浦湾内にボードのような小型漁船が数多く、時にはばらばらに、ある時には共同作業で漁をしていました。紺碧の海に真っ白い舟が点在しているのはなんとも心が和む風景でしたが、最近は見ることがありません。外浦湾の漁業資源にも変化が現れているのでしょう。




                       第59号 平成17年10月23日

 もう7、8年前になりますが、旧婚旅行をしました。こんどは車で同じ道筋をたどりました。都井の岬観光ホテルを後にして、曲がりくねった国道448号線を海岸沿いに北上しました。あいにくその日はひどい雨で、予定していた南郷町の水中観光船はあきらめました。雨にけむる船着場のそぐそばに今住んでいる建物があったはずですが、その時には気付きませんでした。少し先の黒島橋を渡ると食品スーパーがありました。30キロほどのドライブで始めての店らしい店。店頭にビニール袋に入ったかんきつ類が並んでいました。「日向夏」という特産品で、それがなんと5キロで3百円でした。あまりの安さに飛びつき車内で食べてみました。野球のボールほどですが、夏みかんと同じ要領で中の白い甘皮をぜんぶ剥ぎ取り、ずいぶんと小さくなった内袋を口にほおりこみました。酸っぱい味とともに種が6つも7つも出てきて、なんだこれはと捨ててしまいました。今は食べ方を覚えて、甘皮もいっしょに食べると、程よく酸味が中和された上品な味わいを楽しんでおります。

 南郷町や周辺の串間市、日南市、北郷町などはかんきつ類の産地です。おかげで産地ならではの恩恵をこうむっております。消費地の都会では商品とならない小粒のミカンがあちらこちらで売られています。5キロ程度を透明ビニールの大袋に入れて店頭に並べるのがご当地風です。先日のがいちばん安い買い物でした。4キロ入りの袋が20円でした。生産者にはお気の毒ですが、家で数えてみると80数個あり、4つ1円になります。その都度1円分だけ掴んで食べていましたが、ようやく無くなりました。

 もうその早生ミカンの時期も終わり、冬に向かって一直線です。わたしはひどい荒性で冬にはワセリンが欠かせません。ちょっとずぼらをすると踵にアカギレがでます。子供のころにはこのアカギレに悩まされました。昼間は慣れて痛みはなくなるのですが、いちばんつらかったのは夜中にトイレに起きた時です。踵の激痛にびっこをひきながら歩かなければなりませんでした。今でもワセリンは必需品で、5百グラム入りのビンを3年に2個の割合で使っています。

 今年はその年になり、以前から買っていた町内の薬店に在庫確認の電話を入れました。すると今年の3月で店を閉めたと言われました。町の目抜き通りで長年営んできた店を閉めたのです。これはおそらく1キロほど離れたお隣の日南市の同じ道筋にできたドラッグストアーに客を取られて閉店に追い込まれたのでしょう。このドラッグストアーは開店3年目ほどですが、日用品、食品、化粧品、酒類のついでに薬局を併設しているような店構えです。けっこう便利なチエーン店でわが家もどこかで買い物をしますが、購入金額ではこのチエーン店がダントツです。

 気にしていなかったのでその薬店の前を通る時に注意して見ると、やはりシャッターが下りていました。これで南郷町では眼科、皮膚科、本屋の3ない業種が4つに増えてしまいました。人口の減少傾向こそ足踏み状態ですが、町全体がなんとなく活気がありません。それでも食品スーパーの中には繁盛しているところもありますから、創意工夫によっては勝組みになれることを示しています。今はいかにすばやく撤退する決断を下すかが大切な時です。その資源を他の有効な部分に振り向けて再生を図るのが企業、町に県、そして国に求められています。



                第58号 平成17年9月29日

 今日は雨模様の天気のせいか肌寒い一日でした。この数ヶ月間親しんできた半ズボンとも、もうすぐお別れかと少し淋しい気持ちです。田んぼは雑草に覆われているか、掘り起こされた土が盛り上がっているのかのどちらかです。雑草の田んぼでは刈り取られた稲株から芽が伸びて小さな穂をつけています。その稲穂が色づいて雑草の間でこうべをたれています。もちろん小さくて商品価値のない稲粒なので放置されたまま、来年の田起こしまでに土に帰っていきます。3月に田植えをした早期水稲は5ヶ月で刈りとられましたが、二番穂は2ヶ月しかかかっていません。遺伝子操作の危険性が解明されてその予防措置が行き渡るにつれ、この二番穂の早期結実の遺伝子操作が確立して中期水稲にも応用されるようになり、栽培期間が3ヶ月程度に短縮されるかもしれません。5月に田植えして8月に収穫し、台風被害を免れる稲作が全国的に普及することにもなります。遠い夢物語かもしれませんが、全世界の食糧事情の好転に日本の農業技術が貢献できるようになれば幸いです。

 自然の恵みは我が家にもありました。先月もとりあげた月下美人ですが、あまりにもすごいのでもう一度書きます。いっぱしに書斎と呼んでいる、わたしの机や本棚、デスクトップ・パソコンなどがあるビニタイルの洋室に入れた月下美人は、9月に入っても咲きつづけました。最初はあと2〜3日もすれば咲くだろうと思っていると、翌朝には咲き終わって萎びた姿にがっかりしました。これにこりて注意していると、芽の伸び方は予想外に速く、2センチほどのが一日で5センチ以上に伸びることが判りました。それが一輪、あるいは二輪三輪と次々に咲き、その度に芳香を楽しませてもらいました。驚いたことに23日の夜には五輪の花が咲きました。こんなにたくさんの花が一度に咲いたのは初めてのことでした。しかも花芽はまだまだあります。

 翌日には朝から芽のふくらんでいく経過をビデオに収めました。なんと9つのつぼみが今夜の楽しみをふくらませてくれました。9時が過ぎ、10時になると純白の花弁が惜しげもなく開ききり、芳香が部屋いっぱいにたちこめ、この世の楽園かとうっとりとなりました。匂いがいちばん強いのは12時ごろで、2時を過ぎると勢いが弱まっていきます。だがこれだけではありませんでした。25日にはなんと最高の十輪開花です。こんな機会は逃したくないので夕方には居間から食卓を移し、月下美人の下で花見酒としゃれこみました。といっても喜んでいたのはうちのかみさんだけで、下戸のわたしはすぐに真っ赤になって寝転んでしまいました。

 その夜は寝室も移しました。いつもは居間の北側の和室に寝ているのですが、この夜は布団を書斎に運び込んで、少し窮屈でしたが月下美人の下で寝ました。匂いが散るのがもったいないので、暑苦しい感じもしましたが部屋を締め切って、充満する芳香を満喫しました。なんという幸せ。「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行の心境でした。


                       第57号 平成17年8月27日

 今月の初めには群をなして飛び交っていたツバメも盆前には姿を消していました。もう南の島に着いたことでしょう。今年のわが家の月下美人は盛況です。3年前の小さな苗がもう2メートル近い大鉢に育っています。6月の終わりごろから咲き始めました。夏に咲くものと思い込んでいたので、最初の2つに気付いたのは咲き終わって萎れてからでした。7月になると次々に芽が伸びて、一晩だけですがひっそりと咲いてくれます。白い可憐な花弁もキレイですが、その芳香がたまりません。これを堪能するために、今夜は咲きそうだと感じると室内に取り込みます。だいたい8時か9時ごろから花弁が開き始めます。咲き終わると匂いがたちこめ、室内は甘い香に包まれて幸せな気分にひたります。昨夜は2つが競って開きました。寝る時はその部屋を締め切り、夜中にトイレに起きた時にはそこに入って立ち込める匂いを楽しみました。もうこれで10個ぐらいは咲いてくれましたが、まだ芽が幾つも伸び始めています。今年は当たり年で9月中は咲き続けてくれることでしょう。

 もう一つの当たり年はゴキブリです。噴霧系に4000円、噴射系に1800円、捕獲系に800円、合計7千円近い出費を強いられましたが、完全駆除には程遠い状態です。雨上がりの湿気の多い夜などにはよく出るとうちのかみさんは言います。サルモネラ菌やインフルエンザウイルスはいやですが、這いまわるのは蟻やナメクジと同じで、それほど気にすることもあるまいと私は思っています。しかし、うちのかみさんはこれほど極悪非道の害虫はいないという憎悪と敵愾心に満ち溢れています。そのせいか、ゴキブリの発見率は私の数倍です。たとえ暗闇であろうとも、ハッタと心眼を開いて見据えれば、天井近くの壁であろうと、冷蔵庫の隙間であろうとたちどころに見つけて、瞬間コロリの噴霧剤でやっつけます。その硝煙立ちこめる戦野に転がる死体処理はもっぱら私の役目です。ペーパータオルで床に転がる死体を拭き取ると、あたりの床は薬でベトベト。

 アーサー・ベン監督、ウオーレン・ベテイ、フェイ・ダナウエイ主演の、アメリカン・ニューシネマのさきがけとなった「俺たちに明日はない」1967年は、社会からはみ出した若い二人が警官隊の待ち伏せにあい、どちらも数十発の銃弾を浴びて絶命する壮絶なラストシーンが忘れられない。うちのかみさんがまなじりを決してスプレーのボタンを押している間は、マシンガンの引き金を引き続ける警官と同じ興奮状態だはなかろうかと想像する。

 今月で今年の三分の二は終る。とりたてて思い出す出来事もないままこの一年も終りそうである。なんとなく物足りない気もするが、年をとると平穏無事が何よりの幸せかもしれない。この後もできるだけ長い二人の無病息災を祈っている。



                       第56号 平成17年7月30日


 梅雨の明けた7月の終わりから、8月半ばごろまでがいちばん暑く感じます。西の山から潟上川までの2百メートルほどの間に、外浦の集落が南北に続いております。その狭い空に数十羽のツバメが入り乱れて飛び交っております。今年巣立ったヒナたちが、遠い南の島を目指して太平洋を渡る練習をしているのでしょう。外浦団地の玄関ドアーの上には電力計の透明の函が取り付けられていますが、油断するとこの上にすばやく巣を作られてしまいます。巣だけならいいのですが、ものすごいフンで玄関前は見るも無残に汚されてしまいます。このフン害を防ぐために、メーターの上に小型のペットボトルなどを置いて妨害するのですが、その僅かの隙間に巣を作った豪傑ツバメもいました。もうそのヒナたちも巣立ちを終え、来年の熱い戦いが始まるまでのしばらくの休息の時です。

 先週末から24日の日曜にかけけてが、南郷町での早期水稲の借り入れのピークでした。今年は3月から6月の間の降水と日照に恵まれ、台風の被害もなかったので作柄は良好と報じられておりました。町の米屋さんに頼んでおいた新米が25日には関西に届いておりました。刈り終わった稲ワラはそのまま田んぼに残されています。昔の手作業の刈り入れ時代には、刈り取って穂の付いた稲束をまず天日乾燥させるため、稲掛けの長い棚が幾重にも田んぼに並んでおりました。細い鋸歯の付いた稲扱きに稲穂をかませて削ぎ落とします。それが足踏み式からエンジン動力へと変わっても、一家総出で脱穀作業にいそしむ風景が長く続いておりました。残った稲ワラは霜のおりるころまで、幾つものとんがり帽子の円筒形に積み上げます。いわゆる稲村が朝霧にけむる水墨の世界が、初冬の農村の風物詩でもありました。冬の夜なべ仕事でこの稲ワラで荒縄や莚を造り、ささやかな現金収入となっておりました。

 現在ではそれらは化成品に取って代わられました。稲刈り機械の中で脱穀乾燥され、たちまち籾米ができてしまうので、稲ワラは田んぼに放置されますが、切り刻まれて撒かれるのと、そのままの形で残されるのとがあります。前者はいずれ鋤き込まれて土に帰っていきますが、そのままのものは畜牛の飼料として再利用されます。ここからは畜産業者の出番になるようですが、まず放置された稲ワラを反転乾燥させます。さすがにフォークを使って人力で稲ワラを放り投げるという作業はやりません。ちょうど雨傘の骨の先を曲げたようなアタッチメントをトラクターで牽引し、これを回転させて稲ワラをかき回しいきます。次ぎはこれを荷造りするのですが、別の箱型のアタッチメントを使います。その後側には熊手が付いており、稲ワラをかき集めて箱の中に引き込んでいきます。ゴンゴラ、ゴンゴラと音をたてながら、肘が屈伸する鉄のアームで稲ワラを掻き寄せて圧縮してしまいます。トラクターが通った後には結束された長方形や円筒形の重い稲ワラの保存飼料が転がっています。

 アタッチメントの形式で長方形か円筒形の違いが出るのでしょうが、長方形は積み重ねに便利であるし、円筒形は換気性に勝れているようにも思えます。率としては長方形がはるかに多く見受けられます。宮崎牛の胃袋のいくらかは、南郷町の田んぼに転がっていた稲ワラが満たしていくことになるのでしょう。



                       第55号 平成17年6月29日

 南郷町の早期水稲、いわゆる超のつく早場米は、もう稲穂が垂れ下がっております。これから田んぼの水を落としていき、来月には稲刈りが始まります。日本一早い新米を賞味できるのはありがたいことです。後期水稲を作る県の山間部では6月の中旬に田植えをします。太平洋高気圧と梅雨前線のいたずらで、北の方は雨続き、南九州はカラカラ天気が続いております。そのために降水不足で田んぼに水をはれず、苗は伸びきってしまうのにひび割れ田んぼで、田植えができずに困っている地区もあります。中国の洪水、新潟県の大雨、南九州の渇水など、今年の気象は荒れ模様です。これが穀物市場に投機資金を呼び込んで暴騰ということにならなければよいのですが。

 宮崎交通が産業再生機構の支援を受けておりますが、経営再建の一環として、採算性の良い高速バス路線を拡充する一方、不採算の27系統13路線(全体の1割弱)の廃止に踏み切ります。これは仕方のないことですが、打ち切られる沿線の住民にしてみれば困った問題です。私の住んでいる外浦の国道448号線にも路線バスが走っております。窓の外を通過するバスを見ると気の毒なくらいよく空いています。まるで空気だけを運んでいるかのように、無人か3人以下というのがほとんどです。「田舎のバスはおんぼろバスで」というコミックソングがありました。さすがにボンネットバスではありませんが、マッチ箱のように寸詰まりか、以前は超豪華であった観光バスを使っている時もありますが、事情は変わりません。

 その廃止される中に宮崎から串間市の都井岬までの路線も含まれています。観光ブームに沸いていた昭和41年(1966)に新婚旅行で都井岬から青島で一泊し、宮崎までこのバスに乗りました。国道220号線か海沿いの448号線のどちらを通ったのか憶えていませんが、現在でも南郷プリンスホテルに立ち寄りますので、この道だったと思います。急行バスで、日南市の油津駅前のバスセンターで時間待ちをしました。今はシャッター通りになっていますが、その当時は人があふれていました。建物が豪華なわけではありませんがその佇まい、派手な服装ではないが、人々の醸しだす雰囲気のなんともいえぬ暖かみに心が和みました。初めて訪れたのに、ああ、ここはいいなと思わせる場所があります。油津周辺もその一つでした。南郷町に私たちを呼び寄せてくれた路線だけに、なんとも名残惜しい気持ちがします。

 南郷町にはもう一つ廃止路線があります。外浦に入る黒島橋を渡るとすぐに右折れして、集落を貫通する細い旧道を北上し、潟上川をもう一度わたり直して北西に進んでいきます。この路線は終点の地名をとって大牟礼線と呼ばれています。これは国道を南下する路線に輪をかけた無人バスです。大牟礼集落の住民は144人、バス停から少し離れた住民を入れても千人に満たない人口です。どこの家でも軽を入れて2〜3台の車を持っています。利用客と本数の悪循環で、現在では上下合わせて一日8本では、どちらにとってもメリットはないでしょう。

 せっせと沿道に椰子の木を植え続け、フェニックス・リゾートとしての観光宮崎の基礎を築いた、初代社長の岩切章太郎氏と宮崎交通には親密感を抱いております。一日も早く再建が軌道に乗ることを祈っております。


                      第54号 平成17年5月29日

 ふだんは物静かな漁民集落に大事件が起りました。2001(平成13年)3月に外浦漁港で元鰹魚船の機関士の鈴木重徳さん(当時64)が水死体で発見されたが目だった外傷はなく、妻が夜釣りに行ったままという証言や、発見現場近くに釣り道具などを積んだ自転車が見つかったので、誤って転落した事故死として処理された。ところが今月の11日には妻の昭子(58)が主犯で、連れ子の娘(37)や知人の女性(64)などの助けをかりた殺人事件に発展しました。

 溺死事件の後、地元では死因についての疑惑が広がっていました。もっとも単純なのは「漁師が溺れるはずがない」というものでした。外浦漁港には湾口の防波堤の内側に3本の突堤があり、4つの船溜まりが作られています。防波堤と第一突堤の間は水路のように狭く、数隻の釣り船しか繋げない。隣はずっと広く、30隻あまりの小型魚船、船外機付き釣り船、プレジャーボートなどが泊まっている。第3の水面がいちばん広く、遠洋鰹船がその岸壁や3本目の突堤の内側を錨地にしている。第4の水面にはクレーン船や水中観光船、マリンビューアーなんごうの乗り場、そして数隻の船外機付きが繋いである。死体が浮かんだのは3本目の突堤の上流側の付け根あたりで、すぐそばには水中観光船の乗り場がある。近くの岸壁や突堤には衝突防止用の枕木ほどの硬質ゴム材が、何本も取り付けられているので手掛かりにもなる。また、梯子が3本もあり、水面から手を伸ばせば舷側に届く釣り船が何隻も繋いである。意識を失っていないかぎり、誤って転落しても溺れるはずのない場所だというのである。

 うちのかみさんが井戸端会議で聞き込んできたのは、かなり前から報道関係者の聞き込みが多くなり、鈴木さんの近所では堅く閉ざしてブザーが鳴っても玄関を開けようとはしなかったという。一件落着した事件では警察はなかなか動かない。再調査開始自体が面目失墜であり、多くの場合、新事実ほ発見によって自分たちの失敗につながるからである。昨年9月の大阪、岸和田市のだんじり妻殺人事件でも、今年の1月ごろからのテレビ報道を端緒として、当初は単なる失踪と処理していた警察も動かざるを得なくなり、3月末にはテレビが独占インタビューした人物を犯人として逮捕した。

 オウム真理教についても、1989年1月に松本弁護士が所属する法律事務所から横浜の磯子署に捜査願を出し、単なる家出ではなく拉致であり、オウム真理教がもっとも疑わしいと説明した。しかし、10日後に設置された捜査本部の名称は「横浜磯子区弁護士一家失踪事件捜査本部」であった。また、松本サリン事件では誤認逮捕と行過ぎた取調べに対しで警察は謝罪した。だが、もっと遡った1986年11月に神奈川県警公安部が行なった日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚しても、組織的な盗聴ではないとその非を認めなかった。当時はこんな詭弁でも通用していたのである。盗聴を行なおうとすれば、留守を見計らって侵入して盗聴器を数箇所に取り付け、傍受者との間で感度を確認する作業を続けなければならない。その間に家人が帰宅しないかどうか、顔識者数人以上の見張り役が必要である。機材の調達その他を入れると10人から20人の要員が必要となる。これが組織でなければナンナノヨということになる。1999年の通信傍受法(いわゆる盗聴法)成立以前の、憲法第21条第2項で通信の秘密が保証されていたころの話である。

 日南警察署もようやく重い腰を上げ、主犯の妻と2人の共犯者を殺人容疑で逮捕した。供述によると焼酎に睡眠薬を混ぜて飲ませ、口などを押さえつけて窒息死させ、港に運んで投げ込んだそうである。24日の昼前、干潮時を見計らって遺留品の捜索が外浦港で行なわれた。供述によると靴を履かせたそうだが、検死の時にはなかったので、これを発見するのが眼目である。4年も経った水底に残っているとは思えないが、これも役目だろう。5〜6人のダイバー、ゴムボートの上には3人、陸上の人たちを入れると30人近い大捜索陣である。ところが探す場所が死体の浮かんでいた地点から100メートル近く上流、マリンビューアーの乗り場の手前まで、まだ潟上川の水域を探していた。

 27日に昭子容疑者立ち合いで現場検証が行なわれたのもこのあたりである。不審に思って夜に死体発見場所に行ってみた。そこは犯行現場の自宅から一直線の道を200メートルほどしか離れていない。いつもエネルギーの浪費だと思っているが、遠洋鰹船が居る居ないにかかわらず、10灯ちかいオレンジ色のナトリュウム灯が夜通し輝いている。その4つが現場近くを照らし昼間のように明るい。いくらなんでもここからは投げ込めない。わが外浦団地の隣はは駐在所の赤いランプが灯っているが、片側一車線の国道と河川敷を挟んだ潟上川の岸壁は真っ暗である。おそらくこのあたりが投げ込んだ場所だろう。満潮時刻を見計らって潮の流れを読み、引き潮にのって死体が流れ着くあたりを計算して自転車を置いた公算が高い。さすがに漁師のおかみさんであり、ズボンのファースナーを下げておいたというから芸が細かい。

 遺留品捜査では何も発見されなかったと報じられている。4年前の靴を発見するなど至難の業である。おまけに水中観光船の停泊しているあたりを中心に、この5年間で2回の大掛かりな浚渫が行なわれている。最初はクラムシェル、ゲーゼンで景品を掴んで吊り上げるのと同じ原理で土砂を浚える。2回目はバックホー、新聞などでショベルカーと呼んでいる掘削機タイプ。時期は憶えていないが、悪ければ2回とも、少なくとも後のは犯行以後だと思う。

 検死報告書も確証とはならないだろうし、物証も発見されていない。傍証と本人たちの供述という伝聞証拠だけでは、もし本人たちが法廷で否認すれば検察側としてはやり難くなる。幸い今のところ3容疑者とも捜査員の質問には素直の応じているという。公判の罪状認否でも「間違いありません」と罪を認めることだろう。



                      第53号 平成17年4月29日

 今年も南からツバメがやってきました。「南から 南から 飛んできた来た渡り鳥 嬉しそに 楽しそに 富士のお山を眺めてる」という歌がありました。昭和27年(1952)の第2回紅白歌合戦で赤組歌手 三原純子が歌いましたが、最初は昭和18年(1943)に彼女が歌いました。戦意高揚の軍歌調の歌がほとんどの中での叙情的な歌です。ツバメが長旅の果てに見えてきた富士山をみて喜ぶかどうかわかりません。昭和19年の末から始まった米軍の日本本土爆撃。サイパンを含むマリアナ諸島の基地から飛び立ったB29の編隊にとって日本本州の中央部に位置する富士山は絶好の目標でした。そこから関東へは右へ、関西へは左に舵をきって進みました。米空軍のパイロットには「嬉しそ」ではありませんが、緊張して目印を確認していたことでしょう。

 前にも書いたと思いますが、外浦団地にもツバメは巣を作ります。4階16戸が二つの階段で8戸ずつが結ばれています。各階の踊り場に向き合ってドアーがあり、その上に電気メーターが付いています。10立方センチほどの透明プラスチックの箱に計量数字板があり、その下に銀色の円盤が回転しているおなじみのメーターです。この上の僅かなスペースを見事に利用して巣を作ります。あっという間に完成し、しばらくするとピーピーとヒナの鳴き声が聞こえだします。親鳥は交替でひっきりなしに餌を運ぶ献身的な本能には頭が下がります。それはほほえましい風景ではありますが、ドアーの前がフンで汚れてしまうのには困ります。

 子供のころ民家の軒先に巣板が付けられ、それを利用してツバメが巣を作っていたのを憶えていました。その板の広がりのためにフンの落ちかたが少なかったと思い、ダンボールを取り付けた年もありました。その上に作った巣でヒナが孵ってから餌をやったことがあります。刺身か鶏肉を刻んでピンセットで食べさせるのです。最初の数日はヒナたちが大口を開け、こちらが嬉しくなるほどよく食べてくれました。しかし1週間とたたないうちに近づくと身動きひとつしなくなりました。ピンセットの先に付けた餌でクチバシをつついても、全部のヒナが死んだふりです。おそらく目が見えるようになり私を敵と見て反応しなくなったのでしょう。ダンボールを広げてみても巣があるかぎり、フン害はなくなりませんでした。

 その後こちらの階段だけ、メーターに上に小さな空き瓶などをくっつけて巣を作る場所がないようにしました。この方法で2年は無事でしたが、今年はお2階さんのメーターと壁の僅かな隙間を利用して巣を作ってしまいました。気がついた時にはヒナが生まれていました。いまさら巣を壊すには忍びないので、今年はフン害に苦しみながら巣立ちの時を待つしかありません。



                      第52号 平成17年3月29日

 早期水稲の田植えも終り、南宮崎には一足早い春が訪れています。しかし、この陽気にもかかわらず今月は面白くないことばかり起こっています。18日に西武グループ改革委員会が発表した再生計画によると、売却・撤退する施設のリストに南郷プリンスホテルが含まれていた。女房が美容院などで仕入れていた情報によると、ここはなんとかぎりぎりの黒字なので、おそらく残るだろうと見られていた。どうも希望的観測だけのようである。発表によると本年3月期の予想営業損失は4千6百万円の見込みである。西武ライオンズの年間20億円や、最大の横浜プリンスホテルの14億円近い赤字に比べると微々たる金額のように思う。横浜プリンスの赤字は1室あたり317万円に対し、南郷では55万円に過ぎない。球団は売ると言ったり、残すと言ったりグラグラしている。キャンプ時の宿泊施設として残してくれても良さそうだと思うのは町民としての僻みだろうか。

 諸井改革委員長は堤義明氏とのトップ会談は開かずじまいに終わってしまった。この改革は「あえて点をつけるならば60点」と自己採点している。ぎりぎりの及第点だと自賛しているようだ。「再建が失敗したら私の責任だが、だからといって責任のとりようがない」とおっしゃっている。筋の一本欠けた改革であることは確かだ。資産内容の悪いコクドの悪いところだけを堤一族に残して、西武鉄道と合併する予定である。しかし、コクドの株主を確定することは事実上不可能であり、株主総会を開くことも、分離と合併議案を可決することも出来ないのである。そこのところをみずほ銀行サイドで考えだした手品のような筋書きで粛粛と進めてゆく予定である。堤一族が起こしているコクド株所有の裁判の行方がどうなるか見ものである。

 前回にも書いたが、日南市と北郷町、南郷町の1市2町の平成の大合併についてはメリット・デメリットがいろいろ。究極のところ私にはよく分からない。ただ、住所が宮崎県日南市南郷町と変わるのが魅力で賛成票を投じた。あまりほめた態度ではない。こんな町民の風上にも置けない私が文句を言ってもはじまらないが、今日の北郷町の議会はさんざんだった。住民投票で合併賛成票が多数を占めていたので1市2町の長は合併調印式に臨み、うやうやしく代表印を捺していた。ところがこれを批准するこの前の議会で北郷町だけが否決してしまった。これに抗議した賛成議員の要求により開かれた今日の町議会で、町民の意思を無視してまたもや否決してしまったのである。

 そもそも町政は町民の厳粛な信託によるものであって、その権威は町民に由来し、その権利は町民の代表者がこれを行使し、その福利は町民がこれを享受する。これは人類普遍の原理である。(このフレーズは日本国憲法の前文をもじったものです)

 これによって合併特例法期限内の実現は不可能となり、県南の行政地図には変化は起りませんでした。はたして自立再生の道が開かれるのか、衰退の奈落が待ちかまえているのかは分かりませんが、私にはがっかりさせる出来事でした。


                      第51号 平成17年2月26日

 平成の大合併による日南市、北郷町、南郷町の1市2町での合併の是非を問う住民投票が北と南の2町で明日行なわれる。合併によるメリット・デメリットは全分野にわたっており、わが南郷町の住民にとってどちらが本当に良いのかよく分からない。わが家について言えば、住んでいる町営住宅の家賃は毎年数百円ずつ下がっていたが、来年度は据え置きのままである。これが最初に現れた合併による負担増であるかもしれない。合併のスケールメリットにより質を落とさずに行政費が大幅に少なくなることを願うだけである。

 合併に賛成・反対の両陣営の宣伝カーやチラシ合戦は激しさを増している。その主張は真っ向から対立しており、どちらが正しいのかよく分からない。分からないまま明日に迫ってしまったが、私も女房も賛成に○を付けるつもりである。その理由は不謹慎のそしりを免れないかもしれないが、住所が宮崎県南那珂郡南郷町大字潟上から宮崎県日南市南郷町潟上に変わるからである。日南市は南国のイメージが強く気にいっている。旧住所はいかにも田舎くさく、田舎には違いないのだが、大阪府豊中市宮山町に長年慣れ親しんできただけに、なんとなく肩身の狭い思いをしていたからである。

 月の初めは粉雪の舞う寒い日であったが、西武ライオンズは予定通りキャンプインして、震えながら飫肥杉ドームで室内練習を行なっていた。ちょうどその日、南郷町最大の漁港であり、鰹水揚げ量日本一を誇る目井津港に「港の駅 めいつ」という商業施設がオープンした。「道の駅 なんごう」と良く似た名称だ。違っているのは、景観には劣るが、鮮魚を扱っているのと併設のレストランがケタ違いに良いということである。2年程前にできた「道の駅 なんごう」のカツオ丼は屑のようなカツオのこま切れを使っていたし、味もいまいちだったので二度とその店に入ろうという気にはならなかった。地産野菜の売り場も開店当初は良かったので、冷蔵庫の野菜が減ってくると、町とは反対の方向だが道の駅へ向かっていたものである。しかし、繁盛するにつれ、すぐに観光値段になってしまった。その後、地産野菜の売り場はあちこちにできたのでまったく足が遠のいてしまった。
 「道の駅 めいつ」の鮮魚は漁港の玄人が扱っているせいか、客対応はまだぎこちないが値段は手ごろで、特にビンチョウマグロのブロックが気にいっている。レストランは50席ほどだが、11時から3時間の営業で連日超満員である。最初は5日の土曜日、12時過ぎに行ったのだが、30人ほど待っていたので諦めて平日に出直した。刺身定食980円は質量ともに申し分ない。日南で食べるとだまって1.500円はとられると思う。

 テレビの報じるところによると、毎日300食以上が出るのでスタッフが疲れきり、夜の営業を諦めざると得なかったらしい。すぐにシフト制を敷いて売上倍増を狙わないところが、いかにも漁師らしく商売気に欠けるようだ。



                  第50号 平成17年1月29日

 厳しい寒さが続いておりますが、自然の営みは着実に変わることなく繰りかえしています。もう南の黒潮海流域に出漁しているからでしょうか、外浦漁港の鰹船の出入りは激しくなっております。田んぼはもう田起こしがほとんど終り、水が引き入れられております。日照時間が延びるとともに水も土も温められて代掻きを待つばかりになっております。あと40日もすると田植えが始まります。

 ところが人間社会となるとなかなかうまくいきません。車を運転しない人はこの地方の主な公共交通機関である宮崎交通バスを利用しておりますが、外浦の国道448号線を走るバスは氣の毒です。乗客ゼロが多く、たまにはがらがらのバスから一人二人と乗降する程度です。せっせと沿線にパームツリーを植え続けて南国のイメージをつくりあげた岩切章太郎創業社長のおかげで新婚旅行にご当地を選びました。1月18日には、この名門企業が傘下の10企業とともに産業再生機構の支援を要請して即日支援が決定されました。今後一族は経営から手を引き、不採算路線の縮小と廃止、レジャー、観光施設の一部閉鎖、転売などが行なわれるでしょう。日南サボテン公園は日南市が、都井の岬観光ホテルは串間市がなんとかしようとしていますが、この先うまくいくという保証はほとんどありません。また、今日のニュースで宮崎カーフェリーが経営不振で日向ー貝塚間の航路を3月から中止することになりました。

 3年ほど前に宮崎市の繁華街で9階建てのビルを使って営業していた中堅スーパーの寿屋が閉店しました。そのあおりで日南市の目抜きの商業施設に入っていた日南店も撤退してから1年ほどは空家になっていました。そこに鹿児島系の総合スーパー、プラッセだいわが入居してくれました。おかげで残っていた専門店もなんとか客足が戻ってくれたのでホッとしておりました。ところがこの店も思ったほど売上が伸びないので今月いっぱいで閉店することになっております。

 西武ライオンズはどうなるのでしょうか。よい値段で買ってくれるところがあれば売るつもりです。新しい買い手がキャンプ地に使ってくれるのだろうかという心配が出てきます。なにか箱物工事をやらかす時の見通しが甘いのはいつものこと。宮崎銀行経済研究所の来訪者8万6千人、経済効果は13億円という試算と、西武ライオンズがこれまでの秋だけではなく、春季キャンプにも使ってくれるというのを錦の御旗に、総工費22億余円のうち町が6億余円を負担して大改修工事をやりました。従来の球場の大改修、雨天練習場、これは県産の杉の複合材だけでアーチ状の梁を使った巨大ドームと本式の投球練習場との新設、駐車場の拡張整備、それのもう一つの2軍用として立派なフィールドを作りました。ちなみに昨年春秋のキャンプの時に球場出店関係で千3百40万円、宿泊、飲食などで1億7百万円の合計1億2千40万円が直接経済効果の推計でした。西武ライオンズか来なくなるとこれまでに使った工事費とこれらがパーになります。おまけに南郷プリンスホテルまで売り払われると南郷町はますます寂れていくでしょう。

 私ごとになりますが、昨日銀行に行ってNHK受信料の自動引き落としを解約しました。今までも喜んで払っていたわけではありませんが、27日の海老沢本会長の顧問就任に堪忍袋の緒が切れました。幸い海老沢顧問たちは翌日辞任しましたが、これを受理した新会長は好むと好まざるとにかかわらず、つまり顧問就任を要請しておきながら「クレームは予想していたがこんなに大きな波になるとは」などと寝ぼけたことを言っている。思わす院政を曝け出してしまったのだろうか。こんな橋本元一会長は解任し、決断力と実行力のある良識を持った外部人材の登用と、まったく機能しない経営委員会の石原邦夫委員長以下の委員のメンバー一新が必要。また、海老沢元会長が受け取った1億2千万円の退職金の返還などがなされるまでは受信料の支払を拒否するつもりです。


                      第49号 平成16年12月29日

 年の瀬も押し詰まりなにかと気ぜわしい毎日です。外浦漁港の桟橋に3隻、岸壁には2隻の鰹船が停泊し、残りの7〜8隻は遠い漁場で新年を迎えます。年によっては桟橋にずらりと並び、マストには日章旗や大漁旗などの満艦飾で飾りますが、今年はまだその気配がありません。お隣の目井津漁港を通る機会がありませんが、外浦や対岸の栄松よりも所属する鰹船がはるかに多いので、たぶん、岸壁にはずらっと並んでいるだろうと思っております。

 正月準備で日南市の食品スーパーへ魚を買いに行きました。この店のある道路沿いには今年になってからイオン系のホームセンターとユニクロが開店しました。衣料スーパーのしまむら、赤ちゃん用品の西松屋、大型電気店、ドラッグストアーなどが近くに集り、今までの商業地域をしのぐ賑わいです。

 このスーパーの魚の品揃えは抜きん出ています。前に大マグロの骨だけを百円で買ったことがあります。かみさんが丁寧にこさいで舌道楽を堪能しました。今日も黒マグロがデンと座っています。値段札が付いていますがこれは対象外です。1メートルちかくある天然ハマチが1980円、立派な真鯛が1500円、大きな飛び魚が2匹で4百円。これを大阪の息子に送ってやりました。

 我が家の二人には小ぶりのハマチを買いましたが、その横にある魚、ハマチのような青魚ですが、サバのようなスリムな体型です。「とんぶり」と名前がついていますが、60センチはあるのに値段がなんと3百円です。ブリと名のつく青魚で、エラの赤味や身の硬さから鮮度はじゅうぶんですが、他の魚を物色している人はいるのにこの魚をカゴに入れようとする人が見当たりません。するとこれは人気のない魚だろうかと思いましたが、店の人に聞いてみるとブリとサバの合いの子のような魚で刺身には無理だが照り焼きや煮付けに最高という返事です。この大きさなら蛋白質としては格安と思って買いました。

 帰ってから計ってみると63センチありました。図鑑を調べると「つむぶり」というブリ、ヒラマサ、カンパチと同類の鯵科の魚で、関東以南の太平洋で夏から秋にかけて獲れるが大量に水揚げされることはないようです。体長は1メートルから1.5メートルにもなると書いてあります。かみさんが捌くのを見ていると、身は紅色に淡いピンクの混じるうまそうな色合いで私を呼んでいます。ためしに少し切り分けて食べてみるとあっさりとしたヒラマサのような味で刺身にじゅうぶんいけます。二人で6回は食べるのに十分な量を確保できました。すると1食50円の蛋白質量で我が家の家計に大助かりです。今夜はさっそく「とんぶり」の刺身とあら煮を賞味しました

 近年は魚が減ってきていると実感しておりましたが、まだまだ大丈夫なのかと安心しました。 これで来年はよい正月を迎えられそうです。

                      第48号 平成16年11月28日

 西武鉄道株の問題で西武球団にも激震がはしりました。堤オーナーが実質支配している非上場企業のコクドが虚偽の株数を公表して西武鉄道とその関連企業を実質支配していたことが発覚したのが端緒でした。あげくの果てに、結果的にはインサイダー取引になることはじゅうぶんに予想されながら、西武株を事前に売り抜けて大きな利益を得ました。

 コクド株を堤氏が40%未満保持するだけで事実上のオーナーとなり、そのコクドが株主名簿を操って西武鉄道の大株主として支配し、その関連の観光事業全般を支配する。これは田中角栄が自民党内の最大派閥として自民党を支配し、それによって日本の政治を支配していたのと同じ構図になります。西武村を取り仕切っているのはコクド役の面々でその親玉は堤の旦那です。年貢を免れるほどの才覚をお持ちのお方で、その指図のもとに世のしきたりや決まりごとを守ろうという気持ちなんぞはお持ちでない。うわべはキレイに飾ってずいぶんとあくどい荒稼ぎをなさっていたようです。だいたいアウトローの集団は親分の言葉が法であり、その顔色ひとつでどう転ぶかわからない。日が西から昇ると言われりゃごもっとも、鷺が黒いのはあたりまえ、だから面々は親分の顔色を窺い右顧左眄、これで万事がうまく収まってきたのが現代の七不思議。まあこんなところだろうか。

 現在は西武鉄道グループの事業再建計画を委員会の諸井委員長のもとでまとめている最中です。その少し前に西武球団の副代表が南郷町を訪れて「球団は売却しない」と町長に報告しました。町はやれやれと胸をなでおろしましたが状況は決して楽観できるものではありません。当座の疑心暗鬼を静めるためのリップサービスに、わざわざ南郷町までおいでになったのではないかと考えております。

 西武グループはコクドの持ち株会社形式で、西武鉄道の信用力と都心部に持つ観光部門の不動産の担保力で調達した資金をいろんな事業に投資していましたが、その中には東北、北海道のホテル、スキー場などに赤字が集中しているようです。その他にも球団団経営では毎年20億円程度の持ち出しになっております。再建委員会は非採算部門を精査して順次撤退していくことになるでしょう。そうなると球団を宣伝媒体と割りきって広告費をグループ全体から拠出して持ち続けるか、あくまでも経済原則に則って切り捨てるかのどちらかを選ばねばなりません。今のところ諸井委員長は「世論(の見方)も判断材料にして考える」と幾分保持に含みをもたせた発言をしています

 南郷町にはプリンスホテルがあります。球団がキャンプを張る時は関係者の定宿になっておりますが、ふだんはガラガラだろうと思っておりました。ところがこの夏に娘一家を泊めようとして予約を入れましたが取れませんでした。シーズンの土日はほとんど満室になるという返事にびっくりしました。南郷プリンスホテルが赤字経営ではなく売却を免れることを祈っておりますが、このホテルの採算についての内実はわかりません。

 南郷町はこれまでの秋季キャンプに加え、春のキャンプも高知県の安芸からご当地への誘致に成功しました。その代償として球場の設備を一新し、木製複合材を梁にうまく使った巨大ドームの雨天練習場、二軍用の球場も新設し、その他にも駐車場の拡張や周辺整備などに総額30億円をつぎ込みました。これが今年の春秋のキャンプだけでパアになるかもしれません。面目一新したキャンプ地に日本一に輝く球団が練習するのだからさぞかし全国からの見学者が殺到していることだろうと予想しておりました。

 西武球団の売却話が出始めたころ、ひょっとしたら来年のキャンプはないかもしれないと思って秋季キャンプを見学に行きました。平日の午前中でしたが、春のキャンプの賑わいが嘘のように閑散としたものでした。伊藤監督はドラフトやなんかで、松阪は日米野球のため、どちらも参加していなかったからかもしれません。ブルペンあたりまでの観覧席にハパラパラと居るだけで、名札をぶら下げたプレス関係の人は見当たりませんでした。週刊誌には宮崎県随一のマリンスタジアムでキャンプを始めたジャイアンツの写真を載せていましたがそれは閑散としたものでした。その記事の中に南郷町の西武ライオンズの球場では観客ゼロという時間帯もあると書いていました。

 西武球団がどこかに売却されて新しい所有者がキャンプ地を移してしまうかもしれません。この最悪の事態を予想した町長の引きつったような顔が忘れられません。


                      第47号 平成16年10月31日

 プロ野球にはあまり詳しくないので今年のパ・リーグのプレイオフにはまごつきました。日本のプロ野球は高校野球のようなトーナメント方式ではなく、セ・パ両リーグでそれぞれにリーグ戦を行い、勝率第1位どうしで日本一をかけた優勝戦を行なうものと思っていました。だからパシフィックリーグでは第1位のダイエー・ホークスがセントラルリーグ第1位の中日ドラゴンズと対決するものとばかり思っておりました。

 ところがパ・リーグ終幕後、第1位のダイエー・ホークスと第2位の西武ライオンズがリーグ優勝をかけた試合で3勝したほうが日本シリーズの出場権を得るという、いわゆるプレイオフという制度があったのです。これが以前からあったのか、今年から新設されたものかは知りませんがどうも腑に落ちません。この最終戦の第5試合に破れたダイエーの選手たちのベンチ周辺での氣の抜けたような表情には気の毒でした。

 去年のパ・リーグ優勝チームのダイエーが宮崎キャンプを行なった時のテレビ報道は秋・春ともに巨人と負けず劣らずの取り上げ方でした。それに比べると、わが南郷町でキャンプを張っていた西武ライオンズの報道ぶりはまったくお付き合い程度のものでした。今年はもう2〜3日前から巨人とダイエーはすでに宮崎入りして、例年の球場で練習を開始しました。その上に、球場や宮崎市の中心部で新潟地震の募金活動を行い、テレビで大々的に報道されております。

 日本シリーズで優勝した西武ライオンズは明日宮崎にやってきます。空港での歓迎セレモニーの後に南郷町入りをしますが、例年のように町役場前で歓迎セレモニーをやるのでしょうか。町のあちらこちらには西武ライオンズ歓迎の小旗やのぼりが掲げられていますが、うちのかみさんの大好きな優勝バーゲンセールを打つ店は1軒もありません。

 しかし、なんと言っても日本シリーズの勝者です。松阪投手は婚約発表でにやけていましたが、秋季キャンプも氣を入れて練習してほしいものです。はたして南郷町のキャンプのテレビ報道がどの程度になるのか、まさか去年のようなことはなく、大々的に報道されるだろうと期待しております。松阪投手は宿舎の南郷プリンスホテルから最後に急坂のある4キロほどの球場まで若手に混じってランニングをしているそうですが、いちどその姿を見たいと思っております。また、南郷駅近くにビジネスホテルが先週あたりに新築開店しました。報道関係、その他の宿泊客が押し寄せるので、ホテルにとっては願ってもないプレゼントになるでしょう。



                      第46号 平成16年9月29日

 9月に入って3つ目の台風21号がやってきました。沖縄と台湾の間で停滞していたので、前の20号と同じように黄海あたりから中国本土か朝鮮半島あたりに向かうだろうとたかをくくっていました。急にくの字に曲がり一直線に九州へ向かってきました。前回の16号よりは少し北の鹿児島県串木野市付近に上陸し、南九州を暴風圏に巻き込んで横断していきました。南郷町の北10キロほどの日南市油津で観測された瞬間最大風速は43.1メートルでした。しかし前回の16号の風台風に比べると少しはマシなようです。

 前回の16号は強烈でした。油津の瞬間最大風速は観測史上最高の58.1メートルを記録しました。我が家の南側のガラス戸がビュンビュンとしなり、いつ吹っ飛ぶのかと心配しましたがなんとか保ってくれました。初めて経験しましたがしなった瞬間には風圧を体で感じました。ガラス戸は無事でしたがサッシュの下のレールから雨水があふれて畳のほうへ浸水してきました。タオルなどを敷いて防ぎましたが完全には止まりませんでした。雨戸の代わりに張るベニヤ板を用意していたのですが、ズボラを決め込んだ報いです。この集合住宅でも雨漏りが起りました。ただ最上階は漏らず3階以下でだけ雨漏りが起こっていますので、屋上からではなくこのサッシュレールからあふれた雨水が原因だと思います。我が家では台所と居間の天井から漏りました。

 台所はシミだけでしたが、居間は電灯の吊り下げ器具(引っかけシーリング)から漏れていました。したたるほどではなかったので気がつかず、夜に電灯を点けようとするとパチパチと音がして明かりは点きません。外して調べてみると漏電して器具がやられていました。中を分解しましたがスイッチなどの機械的な通電には異常がなく、コンデンサーあたりのようですがはっきりとした故障個所が分からずお手上げでした。たとえ分かったとしても秋葉原や日本橋のような電気街のない南郷町ではどうしようもありません。

 仕方なく次の日に電気量販店に見に行きました。今のと同じぐらいのものは1万3千円ほどします。節約して同じメーカーの7千円弱の、シェードが少し貧弱だが器具のサイズが似通っている品を選びました。できれば壊れた器具の中身だけを取り替えられないかと思ったからです。だめな時は貧弱なシェードを吊り下げるつもりでした。ところが中身をいじる必要はなく、新旧の器具の直径はぴったりと同じでそのまま前のシェードにはまりました。器具自体はどちらもインバーター式ではなくワット数も同じです。おそらく4年前とはそれほどの変更はなかったようです。ただシェードの見栄えだけを豪華にすれば6千円の付加価値を生みます。ただ、生産コストとしての貧弱と豪華の原価の差は千円以下ではないかと推測しております。これによっていささかなりとも業績向上に貢献できると目論んでいるようです。

 今年はまったく台風の当たり年です。野菜は高止まりしたまま、冷凍野菜を混ぜながら食いつないでおります。またまた被害が出ることでしょうが、もうこれっきりにしてほしいものです。しかし、地球温暖化が遠因であれば、これが普通の事になる日もそう遠くないことでしょう。



                      第45号 平成16年8月26日

 台風17号の後に16号が接近中です。例年に比べ今年は8月の台風が多いような気がします。幸いこれまでの台風が南郷町を直撃することはありませんでしたが、17号は915ヘクトパスカルの大型台風です。これが日向灘から上陸しないように願っております。幸い集合住宅の3階なので屋根が飛んだり浸水の心配はありませんが、雨戸がないので強風に耐えられるか心配です。だいぶ前の直撃台風でガラス戸が吹っ飛んだことがあったと聞いております。台風接近で近くの漁港では漁船の係留を強くして備えています。そのために出漁は出来ず、スーパーの陳列棚に台風による水揚げ減の張り紙が出ることもあります。

 南郷町には南郷、栄松、外浦の3つの漁業組合があります。先日、一番大きい南郷漁協(目井津港)にこれらの漁協の代表者たちが集り、漁業不振による経営悪化の対策を協議したとテレビが報じておりました。遠洋漁業での鮪、鰹の漁獲量減少、魚価の低迷、燃料などの経費増加が経営を圧迫している問題のようです。家の近くで「コンニチワ」と片言の日本語で挨拶する色黒の青年をよく見かけます。彼らは日本の若者が敬遠する鰹船に乗り込ませて一本釣りの重労働に使うために、技術習得という名目でインドネシアから狩集められた労働者たちです。このようなコストダウンの努力をしても漁獲量の年々の減少に直面している問題の解決にはならないようです。

 平成12年にこちらに来たころには豊富な魚にたいへん驚きました。30センチもある飛び魚が2匹百円で刺身に舌鼓をうちました。しかも、その4匹のうち3匹は眞子を孕んでいました。その年に南の串間市では観光飛び魚漁があり、夜の近場の海で掬い取りをやっていました。飛び魚のほかにも左巻きと呼ばれている石鯛の仲間で25センチほどのが3百円以下でした。エンゼルフィッシュのような形をした糸引き鯵、鯖のような肌をした紋鰹、どれも刺身で美味しかった。今年はお目にかかれないのもあるし、飛び魚や左巻きは3倍近い値段になっています。

 ベランダから見える外浦湾内には一人乗りかせいぜい二人乗りの小さい漁船が数多く漁をしておりました。真っ青な海面に白い漁船が散らばっている美しい風景を楽しんでおりました。はっきりとはおぼえていませんが、去年あたりから少なくなったのではないでしょうか。今年は春先からまったく見かけません。外浦や対岸の栄松漁港の船溜まりにはこのような小さな漁船が繋がれたままになっています。

 スーパーの魚の陳列棚には「地どれ」とか「目井津どれ」の表示で豆鯵が売られています。1パック百円ほどで、酢漬けやから揚げにするとビールのあてにもってこいです。この3センチ足らずの鯵をわざわざ獲る必要があるのだろうかと思います。もっと網の目を大きくして資源保護を心がければ、長い目で見た漁礁振興になるのではないかと思いますが、これは単なる素人考えかもしれません。ここで獲らなくても他所でごっそりやられるから早い者勝ちなのでしょうか。

 いずれこのあたりでも飛び魚や鯵、鯖が高級魚になる時代がやってくるかもしれません。


                      第44号 平成16年7月25日

 県内のトップを切って今月の13日に串間市で稲刈りが始まりました。3月中旬に植えた早期水稲(JA関係での早場米の呼び方)は6月中旬には穂が出て、ひと月もすると稔りでこうべを垂れていました。南郷町でもほとんどの田んぼの稲刈りが終っております。今年は台風や病虫害の被害もなく、日照時間もじゅうぶんで、品質、食味とも良好のようです。

 南郷駅南の60ヘクタールほどが町一番の穀倉地帯ですが、この耕地に日曜日ともなると数十台の三条刈りやら五条刈りの刈り取り機とトラックが群がっておりました。その数だけ農家があり、それぞれに田植え機、刈り取り機、耕運機その他の機械を備えています。なんとも非効率だとは思いますが、自民党政権が続くかぎり、農協、漁協と野親密関係から、この構図は変わらないでしょう。

 先週末からの連休を利用して娘夫婦が男の孫二人を連れてきてくれました。どちらもまだ幼児なのでフェリーを利用し、志布志港まで出迎えに行きました。ふだんは静かなわが家で、いつもどちらかの一人の泣き声が響きわたり、喧騒の坩堝になりました。若ければこそできる子育てというものだとつくづく感じました。最後の夜はせめて南郷プリンスホテルで泊まらせてやりたいと、来るとわかってからすぐに予約を入れましたが、この三連休中はすべて満室でした。ホテルの話では夏場の土・日はほとんど満室になるそうです。地元におりながら驚いた次第です。

 迎えに行く途中、鹿児島県に入った日南海岸のだぐり岬にある国民宿舎に寄ってみました。風光明媚な立地で気にいり、空き室を訊ねましたところ、18日の部屋が一つありました。ツインベッドに六畳の和室が続くスイートクラスで、親子孫6人で泊まり、久しぶりに家族団欒の夜を過ごすことができました。

 南郷町が観光立町を企てるのであれば、もっと観光にふさわしいインフラを整え、関係者の努力が必要だと実感しました。たとえば「道の駅」。来客が多く繁盛しておりますが、それに奢っております。出来た当時は地産の野菜類を低価格で提供しておりました。しかし、最近の価格帯は地元の地産売り場とは大きくかけ離れた観光価格になっております。そこの食堂の「かつお丼」は文字通りのジャンクフードで、丼だけが大きく、お粗末な内容をあてがっております。奢るものは久しからず。

 娘夫婦に完熟マンゴーを試食させましたが、値段を聞いて黙っておりました。その意味はよくわかります。価格に相当するほどの美味さがないということです。外浦の水中観光船に乗せましたが、見終わってからの一言は関西人らしく「2千円とは高いなあ」でした。夏場で透明度の落ちる時期にしても、もう少し工夫のしようがあるのではないかと実感しました。これではレピーターを期待することは無理でしょう。

 志布志港で別れて帰り着いたわが家はがらんとした感じでした。来週には息子たちが空路でやってきます。盆をはずしてくれたのが幸いです。久しぶりに孫たちも顔を見る楽しみもありますが、気疲れのことも先立ってきます。



                      第43号 平成16年6月23日

 6月の台風としては大型の6号ははじめのうちは九州直撃かと気をもんでいましたが、沖縄あたりから進路を東に振り、四国から斜めに本州を横切っていきました。しかし、大型といっても北太平洋がじゅうぶんに温まりきっていないこの季節の台風は、海洋熱エネルギーの供給が少なく、やはり優しいものでした。

 原子力委員会が核燃料リサイクル問題の長期計画を見直しに着手したこの時に、南郷町は使用済み核燃料中間貯蔵施設の立地調査の可否を問う議会が開かれております。町側の提案理由説明、賛成・反対の陳情書の提出、それぞれの側からの参考人の意見陳述などの経過を経て、今日、委員会の審議に続いて午後3時から議会で採決が行われることになっております。この原稿を書いている午後4時半ごろはまだどのような決議がなされたのかは分かりません。九電に適地調査を依頼する議決が否決されることをを祈っております。

 この議会はいわば形式的なセレモニーの色彩が強く、実質的な審議はそれに先立つ委員会でなされるだろうと思っております。この委員会を傍聴したくて、数日前に問合せました。電話に出た町の職員は「原則的に傍聴はできますが、個別の案件に付いては前日か当日の朝に問い合わせ願います」となんとなく奥歯に物の挟まったような言い方でした。今朝電話してみますと案の定、非公開をいう返事です。町当局や議員たちは町民に聞かれて都合の悪いことを、この委員会で決めるのかと勘ぐりたくもなります。

 南郷町には南郷、外浦、栄松と三つの漁協がありますが、この組合長の一人は「調査費用がもらえるのであれば、調べてもらってから決めればいいのではないか」と言って賛成していました。聞く所によると、調査を受け入れるだけで九電側から一億数千万円の調査協力費が町側に支払われるそうです。イヤなら断ればいいという意見もありますが、食い逃げできるほど世間は甘くはないと思います。南郷町長がとつぜん天の啓示を得てアイデアが浮かんだというよりは、九電側にある程度の立地条件についての調査が行われており、建設可能のめどが立っているからこそ申し入れを行った。これに町長が”純粋”に町の発展を願ってのったと考える方が合理的です。ではどこが建設予定地なのでしょうか。これについての情報を南郷町は得ていると推測します。この経緯についての非公開議事録の公開要求がなされましたが、この結果はどうなったのかわかりません。

 九州電力管内の使用済み核燃料が出る原子力発電所は佐賀県の玄海と鹿児島県の川内です。直線距離で玄海から2百キロ、川内からも百キロ以上あります。その上どちらからも南郷町に至る道路は阿蘇・霧島の背嶺山脈を越えての、山あり、谷あり、橋あり、トンネルありのくねくね道路で、総延長は4百キロや2百キロにもなります。100トンを超える使用済み核燃料を入れたキャスクを積んだトレーラーの総重量は150トン近くになります。もちろん微量ながら放射能を出しております。こんな物騒なものを陸上輸送するとは考えられません。

 とうぜん海上輸送になるはずです。どちらの原発もそこだけに使う立派な港を持っておりますが、この100トンを超えるキャスクを陸揚げする港湾施設が南郷町にはありません。なければ作るしかありませんが、贄波の浜か漁協のある港以外に、新しく港になる適地はどこなのでしょうか。九電には分かっていることですが、われわれにはまだ明らかにされておりません。これが分かるころには既成事実が後戻り出来ないところまで進んだ後になるでしょう。5万分の1の地図を広げてみても、素人考えでは日南海中公園に指定されている南郷町の海岸線には無いように思います。いや、百メートルほどの山が迫っているから、万が一事故の時には被害を最小限に押えられるからという理由で決めるのであれば、費用はかかりますが適地が無いわけではありません。指定などは解除すればそれで済むと考えているのかもしれません。その他では漁港がありますが、漁協が受け入れて陸揚基地になれば懐が潤うから賛成だ、なんてことはないように願います。まさか外浦漁港や対岸の栄松漁港に百数十トンのクレーン付き陸揚施設が出来ないでしょうな。

 いすれにしても議会の結末は一両日中には伝わってきますが、もし受けいれ決議がなされたのであれば、反対の住民運動に参加しなければならない。


 PS:午後6時のテレビニュースで立地調査依頼の議案が否決されたと伝えております。私の心配が杞憂に終ってホットしております。最終的に建設が進むと、引越し先を探さなければなりません。九州がダメなら沖縄か喜界ヶ島かと悩んでおりました。
 町長は白紙撤回を明言しておりませんので、今後とも注意深く見守っていく必要があります。



                      第42号 平成16年5月20日

 まるで梅雨のはしりのようにうっとうしい日々が続いております。早々と台風2号が発生し、北上を続けておりましがが、幸いにも宮崎県の東方海上から関東方面の洋上へと抜けるようです。

 こちらへ来てから4年目に入っておりますが、まだご当地直撃の台風はありません。話に聞くところによると、直撃台風の時にここより百メートルほども海から離れた集合住宅の南向きの大きなガラス窓が吹っ飛んだそうです。わが家のガラス戸には雨戸がありません。おそろしくなって日曜大工よろしく、南向きの窓に厚手のベニヤ板を取り付けられるようにしました。ところがこれが役立つ機会がありません。せっかく作ったのだから、効果のほども試してみたい気持ちもあります。しかしやはり、宝の持ち腐れの方がありがたい。

 第41号でも触れましたが、南郷町長がとつぜん九州電力の使用済燃料中間貯蔵施設の適地調査を依頼したいと表明しました。4月11日に上程された調査依頼議案は一旦可決されましたが、15日に「当面見送る」と否決されました。これで一件落着かと思いましたが、町長はそうは考えていないようです。その後「正確で客観的な情報を、長い時間をかけてゆっくりと学び考えていきましょう」と持久戦に持ち込むようです。坂元町長名でA4版4ページ、最後のは2ページのレジュメを3回にわたり配布しました。また、5月の町広報誌10ページのうち3ページ半を費やして「使用済燃料中間貯蔵施設」建設の必要性を訴えています。その論点の眼目はこれを受け入れることによって町の財政がうるおい、町が栄えるということらしい。

 つまり、だれもが嫌がる物を預かってやる代わりに、たんまりと預かり料をいただこうという目論見です。この考えがとつぜん坂元町長の脳裏に天啓のようにひらめき、九電側に働きかけたわけではないでしょう。だが、あくまでも町側からの立地可能性の調査依頼というかたちになっております。おそらくまだ発表はしていませんが、適地はどこかとっくに決まっているでしょう。最初はたんに調査依頼だけで作ると決まったわけではありませんとも言っていましたが、さすがにこんな子供だましの言い訳は使わなくなりました。その後の説明資料にある概念図や施設の詳細なイラスト、貯蔵容器(キャスク)の図形などは、町長の指示のもとに優秀な町職員が調べまわって作り上げたとは考えられません。

 九電側の資料提供と世論操作方法について陰に陽に働きかけと助言があるものと私は思っております。九電の戦術はまず首長を攻略する。その指導力によって議会の賛成議決を得ればもう錦の御旗を取ったも同然。その後市民レベルでどんな反対運動が起ろうとも、しゃにむに既成事実を作り上げていきます。この方法で照葉樹林に送電線鉄塔を建てる綾町では成功しました。失敗したのは串間市の原子力発電所立地調査です。九電はどちらかというと隠蔽体質があります。たとえば「使用済燃料中間貯蔵施設」という言葉を使っていますが、全国レベルで使われている名称は「使用済核燃料中間貯蔵施設」です。ことさらに刺激的な「核」という文字を抜いている姿勢にまやかしを感じます。南郷町は知ってか知らずか、同じように「核」抜きの名称を使っております。試験問題が難しくて全員がカンニングした。ところが級長も間違っていたので、クラス全員が同じ問題で間違った答案を出していたという笑い話のようなものです。

 原子力関係の安全神話についてはまったく信頼出来ない。いたるところで事故があり、そのうえにこれを隠蔽しようとしてボロを出しています。作業書どおりの手順をふんでいては能率が上がらないので裏マニュアルを作る。その手抜き作業では放射能溶液を手作業のバケツで運んだ。ブリキの代わりに高価なステンレスバケツを使ったから良いというレベルの問題ではないことは素人でもわかる。このような信じられない手抜きで、茨城県東海村では臨界事故が起っている。いくら安全安全ととなえても、空々しく聞こえるだけで、外浦の班長会で婦人たちが孫たちに安全な自然を残してやりたいという、切実な言葉のほうがずっと説得力がある。

 南郷町はどうなるのでしょうか。私たちが南郷町を選んだ理由は、冬が暖かく、海に近くて魚が美味しい。その上に物価が安くて、原子力関連施設がないという条件です。たしかに原子力発電は現代の日本にとって決して無視できないものです。この問題について私は総論賛成、各論反対です。つまりNMBYです。「わたしの家の裏庭にはイヤよ」ということです。

 もしこの案が進むようであれば、全力をあげて反対運動に加わります。たいへん気にいっている南郷から出ていく苦労に比べれば、死に物狂いの反対運動など屁でもない。さいわい南郷町民による反対組織が二つできており、いろいろと運動をなさっておられます。この人たちの努力が効奏して、私が参加するまでもなくこの案が立ち消えになることを祈っております。


                      第41号 平成16年4月26日

 外浦漁港に鰹船がまったく寄り付かなくなりました。おそらく鰹を追って遠州灘あたりまで北上しているので、近場の焼津や清水港あたりで水揚げしているからではないでしょうか。

 鯉のぼりの季節になりました。ご当地名物の鰹のぼりも勢いよく泳いでおります。このあたりでは幟も立てます。相撲場所にはためく縦長の幟と同じ形で、鍾馗様や清正の虎退治などの武者絵で飾ります。これが案外高く、チラシの広告を見ていると4万とか5万円もします。これに加えて旗竿の費用も要ります。節句の武者飾り、鯉のぼり、旗指物などの総額はバカにはならない金額です。こちらに孫がいなくて幸いです。

 今月は運転免許証の更新がありました。高齢者に特別講習があるというのは聞いていましたが、免許更新の時に別途のスライドか何かを見せられる程度だろうと予想しておりました。ところが事前に葉書の通知があり、自動車教習所で別途費用¥6.150を払って受けなければなりません。選択制で4千円台のコースもありましたが100%の合格ではないので、仕方なく高額コースをとりました。

 実技教習の車は5ナンバーの三菱車でした。前を走る車の左テールライトのウインカーもブレーキも点灯しません。助手席の教官はこの型の車に共通している故障個所だと言っていました。以前はテールライトの球がよく切れたので、予備を積んでおいて自分で取り替えたものでした。しかし、この20年ほどは球が切れたことなどはありません。

 1970年に社用車でコルト・ギャランをあてがわれたことがありました。新車だったのですが、1ヶ月点検の時に出たクレームは30箇所はあったと思います。その後も故障が多く出て閉口しました。また、三菱電機のシャンデリヤタイプの吊り下げ蛍光灯を買い、取り付けの時に問い合わせをしました。取扱説明書に載っている番号に電話するとたらいまわしになりました。3箇所目にたまりかねて苦情を言ったこともあります。こんなこともあり三菱製品を買わないようにしております。その後、ロケットは落ちるわ、豪華客船は燃えるなど散々な会社です。

 私の仕事は建設機械の販売でした。最初は新車でカタログだけをもってユーザー廻りをしておりましたが、その後中古車部門に配属換えになりました。これが私には合いました。ユースドになると、骨董品、絵画、自動車も同じですが、真贋を見分ける目利きが必要です。中古品は買った時に勝負ありです。売れ筋で、質のいい品をいかに安く買うかで決まります。品物を一瞥しただけで幾らなら買うか、あるいは買わないかを決めなければなりません。この品定めの良し悪しで損得が決まります。自慢話になりますが独立後、1台の中古大型建設機械を2千4百万円で売って、千2百万円儲けたことがありました。わたしのビジネスライフでも空前絶後のことでした。

 日本の建設機械メーカーの中にキャタピラー三菱と小松製作所があります。これらの会社の中古車担当者が独立するケースがありますが、おもしろいことに、三菱出身者は皆無でした。なぜかといいますと、社風が三菱はお城侍、小松は野武士集団の雰囲気だからです。三菱の社員はいい意味では組織で動きますが、単独では無力だったのです。現在では後発の小松製作所が世界のキャタピラー社を追い抜いて世界一の地位を占めております。

 私の嫌いな会社は三菱のほかにNECがあります。10年以上も前になりますが、初めてパソコンを買ったのは16ビット機でした。そのころはソフトの品揃えという点ではNEC98機の独壇場で、当時のパソコンシェアーは70%近くを占めておりました。私の使いたいソフトも98用しかないのです。パソコンを買うにあたって調べてみると、8ビット機の時代にNECはアメリカで10万円で売っていたのに、同じ仕様だが日本語変換機能をつけたという特異性だけで、国内価格は20万円でした。このために日本のパソコン普及が遅れ、第2のビル・ゲイツが生まれる芽を摘んでしまったのかもしれません。

 仕方なく買った98機でしたがNECのふんぞり返った態度には頭にきました。いくつも嫌なことがありましたが、最後にサービスセンターに問合せている時、係員の若い女性は「拡張スロットが4つあるでしょう」と言いました。ところが機械本体も、マニュアル、カタロクどれを見ても3つしかありません。そのことを告げると「あんたほんとに機械を持ってるの」とぬかした。これ以後、金輪際NEC製品は買わないことにしました。この会社も防衛庁への納入にからんで問題を起こしておりました。

 どうもこのごろ超一流の会社で常識では考えられないような不祥事が起ります。この一連の出来事は事実の認識力の低下が原因だと考えられます。物事を正確に把握して因果関係を認識し、その事実に対して誠実に対処する心が失われている。その結果、因習的な先送り、虚偽と隠蔽が優先する風潮が蔓延している。もっと謙虚に真実を受け止めて正直に行動することが、一番安上がりだと気付かなければならない。

                      第40号 平成16年3月24日

 南郷町の早期水稲の田植えはほど人終わりました。外浦漁港の鰹船の出入りも激しく、岸壁に停まっている間はごく僅かです。長くて3日、早ければ夜明け前に入ってきたのが夜になるのを待ちかねるように早々と出港していきます。毎年のようにフイリッピン沖から三陸沖まで、黒潮に乗って北上する鰹を追うのも、3月の声を聞くと田植えの準備に取り掛かるのも、自然の移り変わりに従って繰り返されている営みです。

 ところが人間の方はすんなりと自然体で収まってくれません。レジオネラ症集団感染問題で7人の死者を含む多数の被害者を出した日向サンパーク温泉の長としての責任は、最初は安全な施設の再開に全力を尽くすことだと言っていた山本孫春日向市長は、いくら不起訴になったからとはいえ、最後まで市長の座を去ることはありませんでした。それどころか、任期満了に伴う市長選挙に立候補しました。

 以前に野辺修光串間市長が選挙違反で最高裁まで争った末、連座制で失職しました。とうぜん次の市長選挙に立候補はできません。すると驚いたことに2003年の統一地方選挙で宮崎県議に串間市から立候補しました。なんとこれが当選したのです。まったく予想も出来ないことで、串間市民の中にはこれまでの功労者に対して活躍の場を与えようという意見が多かったのでしょうか。

 こんなことがあったので、こんどの日向市長選挙も瓢箪から駒が出るかもしれないと恐れていました。幸いなことにご本人は落選してレジオネラ症事件の影響大と落選の辞を述べていました。しかしその票差は1万5千に1万4千、僅かに161票でした。宮崎日日新聞の伝えるところによると、レジオネラ症集団感染事件の責任の取り方を最大の争点にした対立候補の黒木氏が、終盤戦で批判を強めれば強めるほど同情票が山本氏に流れ出した。しかし黒木氏は「今回の選挙は日向市民の良識が問われている」と訴えて浮動票の獲得に成功したと、歯切れの悪い書き方をしていました。その投票率は前回よりも5.34ポイント低かったのです。

 山本孫春氏や野辺修光氏に投票した有権者の気持ちがよく分かりません。アメリカ映画などで、いくら親しい間柄であっても一旦利害が対立すると、今までの相手を思いやる気持ちからみごとに豹変し、敵愾心をむき出しにして争う場面に出くわして戸惑うことがあります。そこまでいかなくても、政治家が非難に値する行動をとると政治生命を失ってしまうような厳しい結果を、選挙人は突きつけるものだという自覚を持たざるを得ないような政治風土を望みます。

 こんどは南郷町長が核燃料中間貯蔵施設の誘致の是非を検討すると突然に発表しました。南郷町から九電側に調査要請という形をとっていますが、最初にこの話を南郷町独自に立ち上げたと言われてもすんなりとは納得出来ません。九電側からの働きかけに応じたと見るほうが自然だろう。この間のい経緯は説明されていない。もしかしたら議会ではあったのだろうか。とにかく町議会に計られ、11日に一旦議会側は同意したが、15日には反対意見を受けて一転「当面見送る」とする決議を賛成多数で可決している。どうもふにゃふにゃ議員先生方で、風向き次第ではどちらにも転びそうである。

 青森県六ヶ所村のように政府の金目当てに誘致するという財政事情がまず考えられる。しかし去年の秋だったと思うが。2市2町合併問題の住民説明会が外浦公民館で行われた。その席上で町長は南郷町は他の自冶体よりも財政状態がずっと良いので、合併によって得るものよりも失うものの方が大きいので反対であるという意見を述べられた。

 九電が施設を運営すれば法人税が入って町財政が潤い、雇用も促進されるとうので乗り気になっておられるのであろうか。その間の事情の詳細なども全く伝わってこない。子や孫たちに立派な自然を残したい。これこそ得るものよりも失うものの方が大きいのではないかという、町民の心配にたいする説明もないままである。

 私たち夫婦が南郷町を選んだのは、温かくて物価が安く、核関連施設が無いという条件を満たしていたからでした。串間市で原発問題が持ち上がった時は冷やっとしました。幸い下火にはなりましたが完全に消えたわけではありません。これからも油断が出来ないなと思っていた矢先に、南郷町でも持ち上がってしまいました。この問題に対して町民からは反対の声が上がっており、勉強会が開かれておりました。また、先日の外浦地区班長会の場でも、婦人連の反対意見は強烈でした。南郷町長は完全な見送りを公言しておりませんので、住民投票や町長リコールの武器をちらつかせる必要が出るかもしれません。これからも油断せずに見守っていくつもりです。


                      第39号 平成16年2月26日

 あちらこちらの田んぼには水が張られ、田植えが近付いているようです。今日の外浦は強い北西の風が吹いています。一日中ごうごうと鳴り止みません。本州では日本海からの風が中央山嶺を越える間に水蒸気が奪われた、山背(やませ)や颪(おろし)と呼ばれる空っ風が吹きます。九州では東シナ海から天草灘を渡ってきた風が高千穂・霧島山系を越えて吹き降ろす風になるのでしょうか。こちらに来た4年前に、なんと風の強いところだと思いました。その時驚いたことに、わが家にも割り当てられていた4軒分の納屋が強風に飛ばされてしまいました。もともと床の鉄板も穴だらけのおんぼろ納屋でしたが、おかげで新しくなりました。

 そんな風の強い今朝、玄関のチャイムが鳴り、女房が出ていきますと老婦人が野菜を下げて立っていました。てっきり行商の人かと思うと、以前に私がバス停で待っていたのを車に乗せてあげた人で、お礼に持ってきてくれたのでした。詳しく名乗ったわけでもないのですが、漁民アパート、これは外浦団地を地元の人たちが呼んでいる通称、に住んでいる大阪もんといえばすぐに判るのでしょう。今朝揚がったという鰹の切り身と自家菜園の無農薬大根にキャベツでした。なんとも律儀なと恐縮して礼を述べ、ありがたく頂戴しました。

 すし屋のカウンター越しに職人さんと世間話をしていると、決まって宮崎人は商売が下手だから、県外勢にうまくやられているいう話がどの店でも出ます。大阪弁丸出しというわけではないのですが、宮崎訛りとは明らかに違うのですぐに判ります。県外人に対するリップサービスではないと思いますが、判で押したように同じことを言われると、なんだかこちらが悪人のような気になってしまいます。

 そういえば、通販でも思い当たることがありました。数年前に熊本県の製粉業者からそば粉を買いましたが、一見(いちげん)の客に代金後払いで送ってきました。今度もそうですが、大阪では簡単に手に入るので使っていた業務用のペースト状の中華スープの素「シャンタンXO」が切れてしまいました。こちらで1年以上も探しましたが見つかりません。神戸の中華食材店が全国ブランドで売っている「味覇」(ウエイハー)はありますが、これはグラム単価が倍以上もしますし、XOの方が味が良いとうちのかみさんが言います。おいしい中華料理を食べさせてもらうのに、材料を調達するのは男の役目とばかり、京都にあるその会社のホームページを探してみました。幸いすぐに出ましたが通販はやっていません。仕方がないのでその会社の福岡支店に電話して、宮崎県内で取り扱っている店を訊ねました。

 教えてもらったのは大きな食品問屋でした。おそるおそる電話するとOKで、2缶注文しましたが在庫が無くて取り寄せになります。入荷したら送料や税込みの金額と振り込み銀行を知らせてもらうことで電話を切りました。次の週に電話が入り、「入荷しましたので今日発送します」と言う。「まだ送金していないのに送ると払わないかも」とからかうと「信用しています」とのたもうた。大阪でこんなことをしたら半分は取りっぱぐれるだろうなと、その時にすし職人の言葉を思い出しました。


                      第38号 平成16年1月30日

 先日来の寒波が嘘のような穏やかな日差しです。1月も残すところあと1日。節分、お水とりと春の足音が刻一刻と近づいております。わが家は古いながら南向きの集合住宅の3階にあります。晴れてさえいれば室内は暖かく、暖房器具はごくまれに使う電気ストーブだけですごせます。もう一度か二度の寒波を乗りこえれば、超早場米の田植えと共に一足早い春の訪れを迎えられます。もう南郷町の草むらでは土筆が芽を出したと報じられました。寒さが苦手のわたしはひたすら春の訪れをを待ち望んでおります。

 わが家のベランダから見える外浦湾のきらめくさざ波も少しずつ強さがましてきているように見えます。日の出のころには朝霧が立ちこめることもあります。ひどい時には湾口にある小島や対岸の山々や岬までもが白いとばりに隠され、乳色にすっぽりと包まれてしまいます。もちろん漁港の桟橋に停泊している漁船の陰も消え、白一色の世界です。やはり船のマストや舷側がかすみ、山稜に続く岬や小島が薄ぼんやりと浮かんでいる景色の方がずっと幻想的でなんとなく風情もあります。不思議なことに潟上川が流れ込んできている汽水域のあたりは霧が立ちこめず、際立った潮目を作っております。

 数日前からこの汽水域の最終部分、そこは外浦漁港の桟橋に突き当たって湾内の海水と交じり合う場所です。ここに大きな浚渫船が来て、クレーンで吊り下げたバケットを貝のように開閉して海底の土砂を掴み上げる機械、クラムシェル方式で浚渫作業をしております。この作業はほとんど毎年繰り返されているようです。去年の浚渫船はエキスカベーター方式、つまりATMマシンを強奪する時にも使われる機械で、一般にはショベルカーと呼ばれている掘り方の機械の大型でした。これで去年はかなり底深く掘り下げていたようですが、今年の機械でバケットが底につく深さから察すると、1年で4〜5メートルほどの土砂が川上から運ばれているようです。

 近くに行ってみると、今年のクレーンは吊り上げ能力が350トンもあるので、吊り下げて使うバケットの容量もかなり大きく、おそらく3立米はあるだろうと思います。去年のエキスカベーター式のバケット容量は2立米だと聞きましたので、今年のほうがたくさん掬えますが、旋回速度が遅いので作業量にはそれほどの差は出ないのではないかと思います。

 いずれにしても、10日もあれば予定水域の浚渫は終わり、すっきりとした流れで汽水域をつくり、このあたりを好む魚をはぐくんでくれることでしょう。我が家の前から百メートルほど上流に架かる黒島橋が外浦部落への玄関口になっております。5年以上前から続いていたこの橋の架け替え工事がようやく終わります。来る2月9日に開通式が行われます。恒例の3世代渡り初めも行われる予定ですが、面目を一新した橋の周りの景観が、外浦のイメージアップにつながってくれることを祈っております。


                      第37号 平成15年12月30日

 前号に書きましたが、外浦漁港に鰹船が正月休みに帰ってきたと思いました。なぜなら、いつもは舷側を突堤に横付けして停泊し、しばらくすると出港していきました。入れ代わり立ち代り同じ停め方をしていました。11月の終わり近くに帰ってきた船はいつもと違い船尾を突堤に向けて停泊しました。この停め方はたくさんの船がずらっと並んで停めることができる正月モードだと思っていたいからです。
 ところがその後に帰ってきた漁船も同じ停め方をしながら何隻もが正月を待たずに出港していきました。これらの船はおそらく洋上で正月を迎え、魚群に当れば元日でも死に物狂いで水揚げ作業を続けることでしょう。結局今日現在で突堤に停泊しているのは4隻だけです。これまでの大晦日前にはずらっと並んだ船のマストに、先端の葉を一塊だけ残した太い竹竿をくくりつけ、日章旗、大漁旗などの満艦飾の飾り付けをして正月を迎えておりました。ところが今日でもまだ1隻しか竹竿が立っていませんし、旗飾りもまだです。おそらく明日にも4隻全部が飾り付けを済ませるのでしょう。

 南郷町で一番大きい目井津漁港を昨日通った時には、鰹船は15隻ほど停まっていました。ちょっと少ないかなという感じもしますが、外浦のように半分近いというほどではありません。外浦漁協ではどんな理由があるのか部外者の私には窺い知ることはできませんが、なんとなくうら寂しい風景です。

 町報によると今年の1月から11月までの目井津、栄松、外浦の3漁協の漁獲量と漁獲高の合計は量においては4千トンほど増えているのに、金額では14億円ほど減少しています。魚種が貧しくなったのか小ぶりになってしまったのか、これも私にはわかりません。

 稲作も冷夏の影響で9万7千トンの減収だそうで、自主流通米の米価がキロ5千円ほど上がったにして、差し引きマイナスではないかと想像します。林業、畜産、果樹、蔬菜、観光などでもめぼしい発展はなく、人口もこの1年で149人減っています。唯一好調なのはブームにのった焼酎メーカーぐらいのようです。

 こう書いてくるとなんとも暗い1年ではありますが、輝く日の光と青い空、緑の山々、果てしない日向灘の大海原は変わりなく私たちに恵みをもたらしてくれます。来年こそは希望のもてる年であってほしいと願っております。


                      第36号 平成15年11月25日

 わたしの住んでいる南郷町外浦(とのうら)地区の鎮守様は日之御崎神社です。秋季祭礼がこの22日の宵宮と本祭が23日に行われました。前にも書きましたが、外浦団地16戸(空き1戸)が地区自冶会の第22班で、今年はわが家が班長に当っております。そのために地区のいろいろの行事にも参加しておりますが、祭りの裏方としての炊き出しにも女房がかり出されました。また、班に呼びかけて、道路に面した幅いっぱいにしめ縄を張り巡らし、三つ鱗の社紋、日之岬神社と第22班と白抜きにした藍地の立派な幟を立てたりしました。宵宮の社殿では神事に続き子供獅子舞、巫女踊りが奉納されました。本祭りには天狗のような面をかぶり、高下駄を履き飾り樹を携えた猿田彦神を先頭に、神具捧持、神輿、巫女、若衆獅子舞、子供神輿、男児神楽、婦人手踊りの祭列が集落の旧街道を通って遷宮先の外浦自冶公民館まで練り歩きました。祭列にはたくさんの氏子たちが従いますが、若衆の担ぎ手不足で神輿は車引きです。街道の要所、要所で獅子舞、婦人手踊りが披露されました。また、旧家の門前では子供神輿と獅子舞が囃して、奉納箱には賽銭が収められていました。遷宮先の祭壇の外垣には地元の幔幕が張り巡らされていますが、漁師町らしく、赤地に藍色の波と鰹を染め上げ、網元の名前と船名が抜き出されています。ここでも神事に続き子供獅子舞、巫女の踊りが奉納されました。巫女は5人ですが小学校6年生が勤めるきまりです。ところが今年は6年生の女の子が1人しかいないので5年生もかり出されたそうです。どうもよく分からないのは、5人が縦2列で踊る時は3人と2人なのですが、横2列では4人と1人に並びます。しきたりどおりになっているのでしょうが、おせっかいながら、現代風の演出なら前3人後ろ2人のほうが収まりがよいのにと思いました。

 前の区長さんが「外浦の守り神じゃけん」と言われた日之御崎神社は外浦湾の西山の斜面に小さな社殿がへばりつくように建っています。緑の山腹に朱塗りの社殿がひときわ目立ち、日向灘の荒波にもまれて母港への帰りを急ぐ鰹船からは目に飛び込んでくるはずです。昔から地元の漁師たちが無事に帰ってきた安堵の目印になっていたので、あつい信仰をあつめていたのでしょう。そういえば、このあたりでは北から油津、大堂津、目井津、外浦、夫婦浦と漁港が続きますが、どの港にも航海の安全を司る祭神が祀られいます。それも油津、目井津、外浦では外海を見下ろす山の斜面の緑の中に社殿があるので、先に言ったように帰港のたびに真っ先に目に入る懐かしい目印になっております。

 津々浦々とはよく言ったもので、津と浦の区別もよくわかります。津は港や船着場を指し、浦は入江や浜辺の意味です。つまり浦はあまり整った港には使わない言葉のようです。その意味もあるのか、北から日南市の油津、大堂津、そして南郷町の目井津に続いて外浦、夫婦浦と南に行くほど、つまり人口が稀薄になるに従って津から浦へと変わっていきます。漁協に所属する船の数で港の規模も推し量れます。年の瀬も近付くと鰹船が母港に帰ってきて、満艦飾の飾り付けをして岸壁に係留しますが、おなじ南郷町の漁港でも目井津の港に並ぶのは30隻以上にもなるのに外浦では15隻足らずです。

 昨日から、外浦漁港の桟橋には縦向けに係留した船が1隻見えます。すぐ出ていく時は桟橋と並行に停めますから、これは正月にたくさんの船が並ぶための留め方です。日章旗や大漁旗などの飾り付けを済ませて、故郷のわが家で畳の上の正月を迎えるのももうすぐです。


                      第35号 平成15年10月26日

 南郷町の北隣にある日南市に全国棚田百選にも選ばれた酒谷棚田がある。麓から見上げると、耕して天に至るという中国・黄土高原の棚田には及ばないが、緑に囲まれた穏やかな里山の美しい景観である。残念ながらこの地区でも過疎化と高齢化の波が押し寄せ、棚田の維持が困難になっている。景観保持運動が起り棚田オーナー制度が始まった。百平米あたり3万5千円の年会費を負担すると、産米30キロが貰えて、石垣保持作業、田植えから刈入れまでの農作業、収穫後の祭礼行事などに参加できるそうだ。

 この趣旨に賛成する参加者はかなりの数に上っている。先日の新聞に楽しそうに稲刈りをしている人たちの写真が載っていた。貰える米を10キロ5千円とすると、残りの2万円が賛助費ということになるのだろうか。もちろん、金を払って汗水たらし、田植え稲刈りの重労働なんて真っ平という不心得者はこの中には一人もいない。農作業に参加し、石垣の保全に汗を流し、収穫の喜びに参加できるまたとない機会だと浄財を差し出しているに違いない。私にはできないが。

 この棚田は景観としては確かに価値があるかもしれないが、農業生産性の見地からはあまり賢いやり方ではない。絶対的な耕地不足の時代であればこんな処でも利用しなければならないだろうが、減反政策で休耕田が百万ヘクタールを超えているのに、無理をして条件の悪いところで米作を行う合理性はまったくない。

 日本の農業経営規模は(以下総べて平均値)1.8ヘクタール、平成12年度の全国販売農家1戸あたりの収入額は1千百万円、家族労働力1.03人、公租、雑支出160万円、家計費540万円である。宮崎県の基幹産業が農林水産業なので保守王国はあたりまえ、自民党のおかげでまことに恵まれた業種と言える。わたしは以前に南郷町の穀倉地帯を数家族だけで経営すればと言ったが、ある学者は農業生産性が世界的な水準になるには、1市町村あたり米なら米1種類を1経営主体でよいと言っていた。フランスやドイツでは1農家平均で50〜60ヘクタールを耕作しているが、日本でも知恵を絞って地理的条件を克服し、百ヘクタール規模の経営にならないだろうか。そうすれば490%というような消費者をバカにした輸入関税をかけなくてすむ。

 話は変わるが、今年の米不作は以前のような米騒動にはならないだろう。一時高騰した銘柄米の入札価格が10月になって急落した。これは全農が出荷拡大方針に替えたのが原因の一つである。前回の不作の時には「お上とつるんだ悪徳商人」とわたしが勝手に命名したように、出荷をしぼり米価を高騰させた張本人だった。これによって販売量はとうぜん少なくなったが、それを補って余りある不当利得をせしめることができた。ここまでは目論見どおりだったが、その後、今日に至るまで米の消費量は元に戻ることはなかった。これを教訓として、2匹目のドジョウは諦めるしかなかった。わたしは9月の中ごろにすぐには要らない米を20キロも買い込んでしまい、二人だけでは来年の節分まで買わなくてすむと女房に嫌味を言われている。


  
                    第34号 平成15年9月21日

 宮崎公立大学教授の山口祐司氏が宮崎県の県民性について語っていた。県出身の氏は20年ほど大阪府で暮らし、外にいるとかえってよく見えたと言う。”県民性をポジティブに描いている文献が少ない””向上心が低い””進取の気風に乏しい””温和でお人好し”などと指摘し、”温和・・・”を除いては当っている気がすると述べている。

 県南の串間市で市長をリコールされて失職した野辺修光氏はなんと次の県議選挙に立候補してこれが当選するということもあった。レジオネラ症集団感染で多数の死者まで出した日向サンパーク温泉は第3セクターの運営でその長は県北の日向市長、山本孫春氏が兼ねていた。いよいよ営業再開のめどがたったが、責任の所在を問われていた市長はついに任期を全うする意向を表明し、その上、次の市長選挙にも立候補の意欲を示している。驚天動地とも言うべきことが起っているにもかかわらずまったく無風の穏やかさを見ていると、山口氏の指摘もむべなるかなと思えてくる。

 ところがこんなのはまだ序の口。24年も続いた松形県政に新風を吹き込むと期待された安藤新知事に、早くもこんなはずじゃあなかったのにという苛立ちを覚えている。この人は「汗をかく」のが好きらしい。選挙戦中は「躍動する宮崎を目指し汗をかきたい」と叫び、当選後は「県民の皆さんのために汗をかかなくてはいけない、という重責感がある」と述べると同時に、「(他候補)選挙で汗をかいた人には移ってもらう」と就任最初に行った「同じ価値観を持った人を適材適所に配置した」という県幹部の異動は報復人事という見方がもっぱらである。

 次ぎに、あれ、変だなと思ったのは7月28日の宮崎日日新聞のインタビューに答えて「総務省から受け入れている官僚出身の副知事と合わせて二人の副知事を導入したい意向を明らかにした」。わたしは不覚にも選挙公約は「民間人の女性副知事」一人を指しているものと思いこんでいた。氏の選挙公約には10個の宣言を網羅していた。今から思えば全部入っている公約はゼロに等しいと気付くべきであった。その中の「男女共働社会宣言」には”民間人女性を副知事に、県審議会等に女性30%以上登用、子育支援推進”となっていた。もし選挙期間中に二人副知事制を唱えていればおかしいと気付いたはずだ。それは男性副知事には行政手腕にすぐれた官僚を起用し、女性は人寄せパンダよろしく飾り物に据えることを意味するからだ。このことが判ったのはこのインタビューの時ではないだろうか。そうでなければ文章の専門家である新聞記者が「明かした」と表現するはずがない。

 まだある。選挙中は綾町鉄塔建設反対運動に心情的な共感を示していたが、反対派市民団体が当選後に面会を申し込んでも応じようとはしなかった。3回も応じないのでしびれを切らした反対派3団体が連名で8月27日までに回答を求めたが、知事はすでに決定していることだからと面会を拒否し、どうも文書で後日回答したらしい。会談というインタラクティブな流の中で真意は伝わるが、文書回答は言うなれば一方的な言い放しでしかない。安藤知事に期待して一票を投じた反対派市民運動家たちのくやしさはどれほどのものだろうか。

 その後はなだれを打ったように、知事給与、退職金減額、任期制限、女性知事などは9月の定例議会への上程を見送り、スカイネットアジア航空への資金拠出、シーガイアへのリゾート資金の県議会議決は適切であると、その妥当性を認めた。これらはすべて選挙期間中は反対の意向を示していた案件である。豹変とはこういうことを指すのだろう。この調子でいけば2期どころが前知事と同じく6期続投を目論むのではないだろうか。しかし、いくらなんでもそうはならないだろう。宮崎県民がお人好しだからといって、そこまでなめた真似を許すはずがない。

 安藤新知事の顔を見ていると、この人は晩節をまっとう出来ない人相だと思っている。

                    第33号 平成15年8月23日

 関東以北にもようやく遅い夏がおとずれましたが、南九州は夏本番の晴天続きです。お盆の帰省ラッシュが報道されるたびに、帰省先を持たない都会育ちの身を時には嘆き、また、安堵もしておりました。この南郷町に移って4年になりますが、盆休みに息子や娘が連れ合いと孫たちを連れてきたことはまだありません。こちらも来れば良し、来なければ良しの心境です。

 お盆といえば盆踊りです。この地区でも毎年、自冶会や消防団の方たちの肝いりで行われております。最近の傾向として若い人たちの参加が少なくもうひとつ盛り上がりに欠けるのか、各班を通じて参加を呼びかけております。わが団地も自冶会の一つの班になっており、1軒ごとに参加が割り当てられております。我が家はこれまでの3年間に盆踊りには1度も行きませんでした。なぜかというと、私も女房も盆踊りの経験が無いのです。

 大阪地方の盆踊りの主流は河内音頭です。曲目は知っていますが、踊りの振り付けはまったく知りません。そんなわけでなんとなくテレくさいので遠慮していたのですが、今年はそうはいきません。以前にも書きましたが、今年の4月から輪番制の班長をおおせつかっており、盆踊りのスケジュール会議にも出席しました。

 ふたりにとって頭の痛い問題ですが、立場上知らぬ顔の半兵衛を決め込むわけにもいかずに困っておりました。盆踊りの数日前の夜に公民館で練習がありました。相談の結果、わたしがまず練習に参加し、踊りの振り付けを憶えてそれを女房に教え、なんとかかっこうだけでもつけて参加しようということになりました。

 練習といいうからには、最初は初心者もいることだから手振りや足捌きなどの基本動作を教えてもらえるものと思っておりました。ところがそんな指導はまったく無く、最初から踊りの輪が廻りだし、皆さん、わたし以外は全部女性、それも、元娘さん、元ご新造さんたちでした。その人たちは昔を懐かしんで、少しでも踊る機会があればと目論んで参加したようで、身振り手振りも鮮やかに踊っています。わたしとくればなんと不器用なのか、手を真似れば足がついていかず、足に気を取られると手がお留守になります。だいたい一回りもすれば、その間に10回は同じ動作をするものですから、呑み込みの速い人であればすぐに踊りの輪ににとけ込んでいくことでしょう。おそらくわたしだけが浮き上がったような、ちぐはぐな身振りではなかったかと思います。

 河内音頭とは一味も二味も違った音頭、たぶん南郷音頭らしいのと、炭坑節らしいメロディ、最後に外浦独自の珍しい身振りの踊りがありましたが、どれひとつ憶えることはできませんでした。帰ってから女房に、南郷音頭には櫓を漕ぐ仕草があったのと、外浦音頭ではヤクザが仁義をきる時のように腰を少し落とし、片手を頭のあたりまで上げる仕草があったが、その他はなんにもワカランと告げ、踊りでの参加は諦めました。

 最初の夜と割り当てられた最後の夜に女房と見物人として参加しました。なんだかんだと言いながら結構盛大で、最初の夜にはたこ焼き、焼き鳥、綿菓子の屋台まで開いており、子供たちにせがまれて繁盛しておりました。

 女房はビデオカメラに撮って練習すれば踊れるような口ぶりでした。女性はシナをつくるのに慣れているからそんなことが言えるのだろうと思いますが、テレ屋のジジイにはできない相談というものです。


                    第32号 平成15年7月24日

 寄る年波には逆らえず体力・気力ともに衰え、セミの抜け殻のようにこの1月ばかりはボケーとしておりました。

 その間にも自然の営みは少しばかり梅雨明けが遅れ、熊本県水俣市では痛ましい土石流災害が起き、北日本の作柄が思わしくないなどの違いがあっても、私のような微細な存在にはお構いなく進んでいきます。宮崎県南部山間部に属する都城市では、この15日ごろに早々と稲刈り、脱穀、乾燥、荷造りを済ませ、検査を終えたほとんどが超早場米1等として東京、大阪の消費地に向けて発送されておりました。我が南郷町の田んぼでも数日前から稲刈りが始まっております。

 若者であれば数日の休養で体力・気力ともに充実して「よっしゃ、やったるでー」となりますが、わたしの場合は1ヶ月が過ぎてもぼっちら、ぼっちらというところです。その間の読書はあまり肩のこらないものを思って買った2冊と図書館で借りた1冊。どれもこれもひどいものでした。

 大枚3千円近く払った2冊は「泣いた笑ったお葬式日記」「超高速右脳読書法」です。新聞広告を見てアマゾンの通販で買ったのが間違いでした。図書館から借りたのは綾小路きみまろとかいう芸人? たぶんゴーストライターの書いたものでしょうが「有効期限の過ぎた亭主、賞味期限の切れた女房」です。このネーミングにつられて借りましたがこれも失敗です。芸人が同じネタをあちらこちらのステージで使うのは仕方のないことだと思います。しかし、同じ本の中で何回も読まされるのは苦痛です。語尾を少し変えた程度で数ページが同じネタで埋められていると頭に来てしまいます。

 お葬式は遺族間の修羅場やとんでもないハプニングの数々が収められているものと期待しておりました。所属する会社名まで入った社員の体験談は、ご葬家様にどれだけ満足していただいたかという自画自賛の繰り返しでした。右脳超高速もまたひどい。わたしは最近明らかになった大脳生理学の理論を読書法に適用し、例えば真言密教の秘儀のように、新機軸の読書法を紹介してくれるだろうと期待しておりました。ところがあ右脳読書法についての説明は何もありません。「それが右脳パワーです」「本当にせっぱ詰まって読むときは、右脳が刺激されて得るものが大きい」というような説明ばかりで、これにも失望しました。文中、「面接の達人」を読んだ人と読まない人云々という個所が幾つもありますが、その本の著者はご本人で、まことに商魂たくましいと脱帽します。

 3冊の本に共通しているのは、活字の量が圧倒的に少ないということです。有効期限が36字13行、お葬式が38字15行、右脳が38字15行です。ちなみに手近にある同じサイズの本で、ピュリツァー賞を受けたジャレド・ダイヤモンド著の「銃・病源菌・鉄」(上)は46字19行です。しかも、お葬式は4ページごとにタイトルと挿絵で1ページが使われております。右脳は地の文が10ポイントそこそこなのに、見出しが20ポイントもあります。余白を含めるとそのページの本文は9行しかないという個所の繰り返しです。いちばんましなのは有効期限ですが、その内容は鴻毛の軽さ。ヒラリヒラリと飛び去ってしまいました。あきれ果てたのは右脳の作者です。書きも書いたり3百余冊の自著一覧表を巻末の5ページを使って麗々しく掲げておりました。

 こんな本でなければ今どきの若者は読まないのでしょうか。



                    第31号 平成15年6月29日

 わが家の北側の和室に備え付けてある防災無線からは、南郷町からのいろいろの通達や情報が伝わってきます。また、漁協と並んでJAはまゆう(農協)も農作業の時期を伝達します。早場米は農協のアナウンスによると「早期水稲」と呼びますが、今月に入るともう実を結び、穂がだんだんと大きくなっています。8月に入ると稲刈りが始まるので、農家の人々は育ち具合がいちばん気になる時期でしょう。

 外浦漁港には1隻の鰹船も停泊しておりません。漁協の事務所には所属する鰹船の動向がボードに記されております。船名だけでトン数はわかりません。なぜかどの船も動向については「調査中」と書かれています。伝え聞く所によると今年の鰹は値段が安いそうです。豊漁貧乏なのでしょうか。

 時たま母港に帰ってきてから荷揚げする船もいます。岸壁に横付けした船の甲板で数人の漁労員が船倉から掬いあげた鰹を手渡ししながら陸の大きな平箱へ移します。7〜8メートル離れて大型のバントラックが後部ハッチをあけて待っています。そこにはベルトコンベヤーが架けられ、並べられた平机が平箱と繋がっています。その間を10人ほどの人が流れ作業で積み込んでいます。まず、漁協備え付けの製氷倉庫から2トンダンプで角氷が運ばれてどっと地面に空けます。平箱から最初に長方形の発泡スチロールの箱に鰹を1匹横たえます。次の人が漁協のマーク入りのラップフイルムをロールからちぎって鰹の上に敷きます。次ぎは計量で秤に載せる人、頭側の側面にマジックインキで重量を記入する人、それをリストに記録する人。次ぎはスコップで氷をひと掬いして箱いっぱいに詰めます。その箱はベルとコンベヤーに乗せられてトラックの上で待ち構えている所まで運ばれます。次々と上がってくる箱は奥の方からキッチリと積み上げられていきます。ほとんどトラックいっぱいになる鰹の荷揚げは2時間ほどで終ってしまいます。

 その人たちは作業中に陽気な掛け声などもなく、ちよっとしたやり取りのほかは、だいたい黙々と流れ作業をこなしています。部外者の私が笑顔で近寄っても、チラッと一瞥をくれるだけで、拒絶するでもなく歓迎のしぐさも示さず、まったくの無関心という風情です。なんとかきっかけを掴み、あわよくば売り物にならない鰹を格安で手に入らないものかとさもしい下心があったのですが、この目論見ははずれてしまいました。

 今日は最も魚の品揃えの豊富な日南市のスーパーに行き、2キロ台の鰹で発泡スチロールの横に書いてある数字のいちばん大きい2.3キロを選んで買いました。値段は780円です。うちのかみさんは手さばきも慣れたもので見事に捌き、その4分の1を刺身にして舌鼓を打ちました。


                    第30号 平成15年5月25日

 世の中の景気はいっこうに良くなりませんが、わが南郷町もその例外ではありません。幸い漁獲量はまあまあのようですが、もう一つの基幹産業である農林業や、また、流通、観光業界もパットしないようです。

 町の中心部にあるドラッグスーパーがかなり前に倒産しました。日用品と薬品、酒類、それに若干の加工食品もあり、雑誌類の品揃えも他の食品スーパーよりも多かったので、なにかと便利にしておりました。去年でしたが、とつぜん本棚が空っぽになりました。かなり後に、おそらく別の仕入れルートからだと思いますが、本が並んでくれました。だがのその品揃えがぐっと悪く、前後してその他の商品の陳列も薄っぺらになり、そのせいか店の雰囲気もなんとなく寒々としておりました。経営状態の悪化とともに支払条件が厳しくなり、仕入れも思うようにできなくなっている様子が読み取れましたがとうとう力尽きてしまいました。その後も広い駐車場とともに無人の一角が町から活気を失わせております。

 わが家の南の窓から日南海中公園を巡る水中観光船、マリンビューアー南郷の船着場が見えます。その乗り場は昔の空港で旅客機に横付けする自走式のタラップのような階段と、その先に倒立式の通路が備え付けてあります。船側の昇降口にそれを倒して繋ぎ乗り降りするようになっております。どちら側からも通路を挟んで階段を上り下りしますが、我が家の窓からは階段を上って通路に出る様子がよく見えます。ちょうど、ひょっこりひょうたん島の人形たちが波間からひょこりと顔を出すように頭が動いていきます。手摺すれすれの子供や突き出た大人の頭数から、税務署ではありませんが一日の水揚げ高を調べることも出来ます。20年程前までは、黙っていても全国から観光バスを連ねてやってきてくれたでしょうが、最近では観光バスが止まるのもまれで、近場の観光地として宮崎県民の利用が多いのだろうと思います。残念ながら今年の利用者は例年に比べるとかなり少なかったようです。

 ”たかきやにのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎわひにけり”  夕暮れ時に民草の煮炊きの煙少なきを見て3年間の税を免除し、やっと賑わいを取り戻した安堵を詠った仁徳天皇の古事を引き出すまでもなく、増減中立を唱える財務省や、自民党・政府の税調連中をぐうの音もでないほど押さえつけて、果断に新しい経済システムを育てる大減税を実行するほどの政治指導者が現れないかぎり、現状脱出は難しいだろう。

 新聞論調で最近目につくのは「もう残された時間は僅かしかない」「じっとしていれば野垂れ死」「破局が待ち受けている」というたぐいの結語が多いことだ。これはなにを意味するのだろうか。いくら国が補償しているからといっても、際限なく国債を増発し続けることは出来ない相談というもの。いずれどこかでけりをつけなければならない時がやってくるのは確かである。この時には紙幣を大増発してハイパーインフレを起こせば、債務者である国は労することなく返済して問題を解決することができる。ただし債務者、これは国民のこと、の悲惨な犠牲の上に行われる合法的な収奪でしかない。

 残された僅かな時間にわれわれが出来ることは確かな政治家を選ぶことだけである。すぐにあの人と顔が浮かんでこないのが残念ではあるが。


                    第29号 平成15年4月25日

 南郷在住が4年目に入りました。いま住んでいるのは町営住宅の外浦団地です。団地という言葉はわが国最初の大規模ニュータウンとして高度成長期に大阪北部の千里丘陵地帯の竹やぶを切り開いて建設され、1962年から入居が開始された千里ニュータウンから生まれました。新しい形式の家は鉄筋住宅で台所が分離され、それまでは薄暗い台所の土間の片隅に大理石様にすべすべしたセメント造りの流しが木製の台の上に乗っかっているのが普通でした。それが明るいキッチンに変わり、ピカピカのステンレス流し台になりました。便所も汲み取り式から水洗トイレになっていました。長年慣れ親しんできたしゃがみスタイルから、急に椅子スタイルに変わったので肛門括約筋がなかなか言うことを聞いてくれず、仕方がないので便座の上に危なっかしいかっこうで乗っかるという人知れぬ苦労の末に,ポチャンと撥ね返りの返礼を受けた人も多かったのようです。

 この新しい住宅には入居希望者が殺到して、抽選に当り晴れて新しい生活を始めることができた人たちは羨望の的となり、この人たちは団地族と呼ばれました。これはニュータウンが千里団地という名称だったからです。この時から新しい住居表示として「団地」という言葉が生まれましたが、この条件には同じ集合住宅が少なくとも数十棟集まっていることでした。十棟程度以下ではあれば、気恥ずかしくて「団地」をは呼ばないものでした。ところが外浦団地は4階16所帯の1棟だけですが、なぜか団地と呼ばれています。最初はなんとなく違和感がありましたが、3年も住むとこの言葉にも抵抗がなくなりました。

 わが南郷町には19の地区区分があります。それぞれの地区ごとに区長のもとで自冶会が組織されております。区長は東京都のように公選制ではなく自冶会の総会で選出されます。複数の立候補者の中から選ぶのが普通かどうかは知りませんが、外浦の去年の総会では前区長が推薦する人を追認して選ばれておりました。自冶会には班が下部組織としてあり、南郷町の19地区で250班があります。外浦には25の班があり団地は22班になります。この班長は持ち回り制で、今年はわが家がその順番になりました。これも地域共同体に属する以上はとうぜんの義務として努めなければと覚悟しました。

 外浦の班長会に出席して業務の説明やらいろいろの資料を貰ってきました。最初から予想していたとおり、公共の印刷物、町の広報、図書館その他の公共組織からの連絡紙の配布、回覧板、その他に自冶会費の徴収が主な仕事でした。第1回の書類配布の時がきました。配られた書類の中に驚いたことに軽自動車税の納付通知書と納付書がありました。もう一度最初に貰った資料を読み返すと、その他にも固定資産税、町県民税、健康保険料、これがなぜか健康保険税になっておりますが、これらの税務も担当するようです。軽自動車税についての送付の説明に「期限までに
とりまとめのうえ納付」とあります。各種税の徴収までやらされるのかとびっくり仰天。すぐに女房に前任者に確かめに行ってもらいました。帰ってきて「書類を配るだけで、後は各人が納付することになっている」と聞かされてやれやれと胸をなでおろした次第です。


                    第28号 平成15年3月26日

 桜前線がどんどんと北上しつつあります。南宮崎の南郷町は早期陸稲の田植えも終わり春本番です。わが家の南側の窓は左の3分の2が外浦湾の海景色です。西側の3分の1は2百メートル足らずのお椀を伏せたような山すそが外浦湾になだれ込んでいます。一部は杉の植林ですが、ほとんどが雑木林です。その中腹あたりに1本の山桜がそびえています。もう葉桜になりましたが、まだ春を待ちわびているころに暗緑の山あいの中に薄桃色の一叢がひときわ鮮やかで、凛とした姿は清々しいものでした。

 江戸中期の国学者で歌人の本居宣長の「敷島の大和心を人とわば朝日ににほう山さくら花」という歌は好きです。ただ、惜しむらくはこの歌の大和心が大和魂に置き換えられて戦意高揚に利用された歴史があります。昭和19年10月26日に第一神風特別攻撃隊が出撃し、その第一陣は「敷島隊」と命名されました。その後も朝日、山桜、菊水、若桜、大和隊と続きますが、この自爆攻撃に参加するのは志願者でした。どのような募り方をしたのかは知りませんが、特攻隊を取り上げた映画のシーンでは台上の高級将校、参謀肩章をつけているので司令部から来たことがわかりますが「諸子の参加を希望する。参加する者は一歩前へ」と告げます。すると間髪を入れず戦闘機操縦の全隊員が一歩前へ出ました。断言は出来ませんが志願はこれに近い状態ではなかったかと想像します。海軍の空母、戦艦を始めとする攻撃艦隊は壊滅し、制空権もなくなってしまった当時の状況では、特攻攻撃以外に敵艦に損害を与える戦法がなくなっていたのです。

 今の若者であれば「ボクはどんなことがあっても死ぬのはイヤだ」と残るのが大多数でしょう。自衛隊の戦闘機パイロットにしても同じだと思います。自衛隊は志願制だから徴兵制をとっている韓国の戦闘機乗りに試しても結果は同じでしょう。しかし。ミグ戦闘機を操縦する北朝鮮では「敬愛する将軍様のために」と全員が一歩前へ出るのではないだろうか。誰しも自爆飛行に飛び立つのはイヤです。しかし、当時の日本の若者はイヤだと言うことはできませんでした。国のために命を奉げなけらばならないと教育されていたからです。教育、思想統制とはこういう結果をもたらすものなのです。

 昭和20年4月の米軍沖縄上陸から5月のかけて戦局が絶望的になるにつれ本土決戦が呼号され、鬼畜米英撃滅のために一死必勝の大和魂をもって竹槍攻撃が準備されました。果敢な攻撃精神さえあれば物量を誇る敵といえども撃滅することができると当時の軍部は叫んでおりました。まさか本当にそう思っていたわけでもないでしょうが、そうでも言わなければこの戦争を始めた手前引っ込みがつかなくなっていました。この戦車に竹槍で立ち向かおうとした本土決戦の日本と、精密誘導爆弾やレーザー照準兵器にAK47・カラシニコフ自動小銃で向かうイラン人の姿とが重なってきます。フセイン大統領がテレビ演説で「戦士たちよジハードの精神で邪悪な敵を討て。偉大なるアッラーは楽園を約束する。イラクの勝利は近い。イラクとパレスチナは永遠に繁栄する」と鼓舞しました。

 ところが驚いたことに圧制に苦しむはずの多くのイラン国民は悲壮感を伴った高揚を示しながら、カラシニコフ銃を掲げて乱舞しています。また、バクダット包囲網が築かれつつある今日のテレビで、隣国ヨルダンに住む大勢のイランの若者が祖国防衛のために旅立っている映像が送られてきました。アメリカは石油を盗みに来た侵略者だという思いが偽りのないイラン国民、そしてまた、全アラブ人の心情ではないだろうかと想像します。


                      第27号 平成15年2月25日

 日ざしがすっかり春めいてきました。わが外浦団地の南側の空き地に去年の11月から郵便局の新築工事が行われていましたがもうほとんど完成して、駐車場もない旧街道沿いから移転する日を待つばかりになっております。北隣は駐在所、反対側が郵便局となると安全だし便利です。ただ、南に開けた展望が少しばかり妨げられますが、郵便局舎は平屋なので3階のわが家にはあまり影響はありません。

 穀倉地帯の田んぼでは代掻きも終わり水が張られています。肥料を散布する姿が散見され、超早場米の田植えが始まるのももうすぐです。

 鰹の水揚げ日本一を誇る北隣の目井津港には正月に20隻近く停泊していた鰹釣漁船が、今日通った時には1隻しか残っていませんでした。もちろん外浦港の桟橋も空です。漁場では寝る間も惜しんで鰹漁が行われているのでしょう。漁船の出入りも激しく、たまに帰ってきても長くて数日、早ければ一晩泊まっただけであわただしく出港していきます。

 この船出の風景も様々です。正月休の後の初船出には、いちど湾口まで出かけて引き返してくるという「名残の儀式」をする船もありました。最近になると船出の風景もまことにさっぱりとしております。乗組員を乗せてきて見送っているのですが、まだ湾口にも行かないうちに車はどんどんと桟橋から帰っていきます。せめて湾口を出た船が岬の蔭に見えなくなるまで見送ったらどうだろうかと、窓から眺めながら憤慨しております。

 昔はもっと情緒のあるれる別れの風景があったはずです。そのころは外海に船出していけば無事に帰ってくるとは限らない。女たちは今生の別れとなるかもしれない別離に泣きながら見送っていました。第21号にも書きましたが、外浦(とのうら)があるので内浦もあったのです。ずっと昔、この外浦から3キロほど内陸部まで海でした。現在は国道が通っているところが海底で、その周囲の小高いあたりが平安初期から海外航通の要路として栄えた港でした。日向記には「天文13年(1544年)唐船17艘、異国の珍物数知れず、大いに賑わう」と記されております。このあたりには船出坊、唐人坊、五艘泊、船岡権現、泣き山などの海に関する地名がたくさん残っております。遠くまで見通せる小高い山に船乗りの女房たちが集まり、お互いに泣きながら船が見えなくなるまで見送っていたのでこの地名がついたのでしょう。

 それに比べれば現在の漁業に危険がほとんどなくなったからといっても、もう少し情緒的であってもいいのではないかと思うのは部外者の繰り言かもしれません。あまりにも早く車が走り去る様子を見ていると、さばさばとした表情で鼻歌まじりにハンドルを握る奥さんがたの姿が目に浮かんでしまいます。

 外浦団地はこのあたりの通称で漁民アパートと呼ばれています。ゴミ袋をぶら下げた旦那の出勤風景を見かけたことはありませんが、漁師稼業にも同じような風潮が蔓延していることは確かなようです。


                    第26号  平成15年1月27日

 正月には6隻も停泊していたのに、わが家の窓から見える範囲の外浦漁港の桟橋に残っている遠洋漁業の船は2隻だけです。とちらにも竹の飾りをまだ残しております。以前にも書きましたが、船のマストの正月飾りです。。7〜8メートルはありそうなので、おそらくその根本は10センチ以上の太い竹を使っているのでしょう。その竹竿の下枝を払いてっぺんの葉叢だけを残してその下に日章旗、大漁旗、優勝旗などをいっぱいに飾っております。この飾りはどの漁港でもやっていました。この近くには北から油津、大堂津、目井津、外浦、夫婦浦、恋ヶ浦、宮浦と続きます。どうやら人口が少なくなるにしたがって津から浦へと変わっていくようです。

 まだ2月にもなっておりませんので日本列島は冬真っ最中ですが、外浦の海や薄く刷いた雲の流れる空の色にも早い春の訪れを感じます。少し内に入り田んぼのそばを通ると、3月から始まる超早場米の田植えに備えて田起こしのトラクターが動いています。水を張るまでに何回か鋤き返して空気を入れ、地味を肥やすのでしょう。それをやっているのは掘り返された土の中から虫をついばんでいるシラサギの群れが遠くからでも見えるのですぐに判ります。

 「空飛ぶ新タマネギ」と銘打った、日本一早く市場に出回る早生(わせ)玉葱の初せりが、1月15日に延岡の卸売市場でありました。これは東京や大阪の大消費地に向けて空輸され、初物として賞味されます。真っ白い玉に白葱のような葉の付いた玉葱ですが、わたしたち夫婦が大阪にいた平成12年には普通のスーパーなどで見かけたことはありませんでした。流通の速度と範囲は年々良くなりますので、今ではもう少しすると出回るようになっているのかもしれません。初せりの値段は一玉160円もしましたので、都会地でも普通のファミレスや食堂で使われることはなく、有名な包丁人やシェフのいる高級店で使われるだけでしょう。

 もちろん庶民派の代表格であるわが家でも、ようやく格落ち品が口に入るようになってきました。にら、にんにく、ラッキョウ、ねぎ、ハーブ類などの香味野菜大好き人間の私には、葱類独特の中にもあっさりとしたこの辛味にはこたえられません。もうすぐ鰹の季節になります。今年はどんな初鰹が口に入るのか楽しみにしておりますが、この新タマネギを添えると風味がいっそう引き立ちます。


                    第25号  平成15年01月03日

          
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 10月下旬に発信する予定でしたが、緊急入院のために遅れてしまいました。成人してから初めての病気入院を経験しましたが、今回はその報告です。退院後トップページが機能不全のまま転送できなくなっておりました。これで直ってくれる事を祈ります。入院中にサーバーが「hoops」から「infoseek」に変わっておりました。それを知らずに悪戦苦闘して修復を試み、無駄な努力を費やしておりました。現在のURLは自動的に切り換えられていますが、このサービスは数ヶ月ですから、早めに変更してください。

 10月19日(土)の夜遅くに下血しました。日曜日にも3回の下血があり、月曜日に日南市のかかりつけの病院へ行きました。内科で高尿酸症、眼科では白内障の予防のために時々通っていた、この地区での中核的存在の総合病院です。

 消化器部門がなかったので内科に行き、受付で症状を説明して胃腸専門の先生を頼んだのですが診察はいつもの先生でした。レントゲン画像で異常は見当たらないと言われました。昨日までのサイト検索で「大腸憩室炎」による出血だと思っており、口まで出かかりましたが止めました。胃腸専門の先生にということで廻されたのはなんと外科でした。さすがにその先生は私が出していた症状の説明文を読んで「あなたの年齢では『大腸憩室炎』か『がん』の疑いがある。いずれにしても入院になる」と宣告しました。前からの下血に続き2回の採血があり、貧血気味で疲労困憊しておりました。待合の長いすで寝転んでおりましたが、看護婦さんに名前を呼ばれて立ち上がり2,3歩踏み出して気を失ってしまいました。気が付いた時は処置台の上で点滴につながれ、看護婦さんは頭を打っていないかと聞きました。その後、10月21日から11月26日の退院までの間のほとんどの時間、私の生命維持装置としてお世話になた点滴です。

 チューブにつながれて行動の自由を大きく制限されたので、犬の気持ちがわかるようになりました。同時に前半、1週間以上の絶食期間中も点滴による高カロリーの栄養補給があれば、胃にまったく食物が通らなくても飢餓感は起らないということも経験しました。

 37日間の入院中にも下血は前半に3回ありましたがその後は止まりました。入院7日目、大腸内視鏡検査日の朝に最初の下血がありました。看護婦さんに下血中の内視鏡検査は禁忌だから延期してほしいと告げました。ところが主治医は「禁忌ではないし、今日やらなかったら次の予定は2週間先になる」と勧めます。

 やむなく受けましたが、幸い無事に終わりました。しかし結果はよく見えなかったようで再検査です。胃カメラ、腹部CTスキャナー、大腸内視鏡検査2回、採血は20回近くありましたが「憩室炎出血らしい」という診断だけでした。止血、化膿防止、増血、栄養補給の点滴治療が続けられ、絶食、流動食、普通食へと移った後に退院しました。その間、胃・大腸内視鏡、スキャナー検査の結果についての具体的、あるいは詳細な説明はありませんでした。普通、内視鏡やスキャナー検査を受ければ画像を示しながら説明してもらえるものだと思っておりましたが、この病院ではカルテに挟んである写真さえも見せてもらえませんでした。結局、憩室が大腸のどの部位に幾つあり、どの程度の炎症があったのかについても知らされないままでした。しかし、胃にも大腸にもがん、ポリープ、潰瘍は無いと判ったのは幸いでした。

 私にとって胃内視鏡検査は驚くほど簡単に喉元を過ぎますが、大腸内視鏡検査は鬼門です。この検査には個人差があり、ほとんど感じないままに終わる人もいれば、激しい痛みに苦しむ人もいます。私の場合は後者で、30分ほどの検査のうち半分以上が拷問を受けているような激痛でした。「力を抜かないと通らないよ」と言われても、あまりの苦痛に歯を食いしばっているので力を入れるなと言うほうがムリです。特に2回目の検査では、点滴チューブに痛み止めを入れてくれましたがまったく利きませんでした。その最後のほうに盲腸のあたりをぐりぐりやられた時には、両方の手すりを力いっぱい握りしめて動かないようにしていましたが、あまりの痛さに気絶しそうでした。恐らくあのあたりの憩室から出血していたのかもしれません。

 終わってから看護婦さんに痛みのひどい人について聞きました。すると驚いたことに、宥めたり、すかしたり、時には叱ったり、脅かしたりしながらも続けるだろうと思っていましたが、泣き出す人もいるので、そんな時は動いて危ないので止めるそうです。これは何とか改善してもらいたいものです。


                    第24号  平成14年9月23日

 お彼岸の中日の今朝、北窓の下の旧街道に通じる裏道を墓参りの人たちが通り過ぎていきます。普段でもよく目にする光景ですが、花束と水桶などを下げたご婦人方が多く、帽子に中間色のブラウス、ダークのスラックスにエプロン姿の定番スタイルです。中にはご丁寧にもパラソルまでさした方もおられます。その帽子はヤングミセスのように庇の前をちょっと気取って上げたのではなく、モロに全部下ろしたかぶり方です。ほとんどの人に共通しているのが首にかけたタオルです。去年にも触れましたが、夏の強い日ざしの中で仕事をする時はなにかと便利だとは思いますが、大阪では見かけたことはありませんでした。

 このタオルスタイルは去年も女子高生の自転車下校風景で見かけましたが、今年はいっそう広がったように思います。うちのかみさんが宮崎からの帰りの電車の中で、ちょうど登校日にあたっていたのか、入れ代わり乗り降りする女子高生たちは、化粧と携帯に余念がありませんでしたが、申し合わせたように首かけタオルスタイルだったそうです。わたしもショッピングセンターなどでたむろする平服姿のコギャルたちのタオル姿を数多く目にしました。林間学校の写真がコミュニティセンターに張り出してありましたが、小学生にも首かけタオルは波及していました。この様子ではあと数年もすると幼稚園児にまで広がっていくかもしれません。

 わが家の鉢植えエンゼルトランペットが好調です。最初の2花は数日で枯れましたが、今は5花が咲き誇っています。この花も咲き初めは芳香を放ってくれます。明日にはもう1つが咲くようです。ガクを含めると30センチもある花はトランペットをぶら下げたようで、クリーム色から紅をさしたように赤味を帯びた花びらに変わっていく様子はじつに見事です。5枚の花びらは繋がっており、ちょうどタイの寺院の屋根のように先端がピンと跳ね上がっています。まだ花芽が7つ葉陰から顔を覗かせており、当分の間楽しませてくれるでしょう。

 月下美人にもまた花芽が出てきております。もうとっくに終わったものと思っていたので驚きです。花芽は3つ出ており、そのうちの1つは今夜にも咲きそうです。

 西部ライオンズが優勝し、秋季キャンプ地にもなっているわが南郷町にも春がきたかと思いました。ところが南郷駅に優勝祝賀の看板が掲げられていましたし、町役場にもあるかもしれませんがただそれだけです。町の商店街、といっても国道沿いの1キロほどの間に飛び飛びに店がある程度ですが、彼岸団子売り出しの張り紙はありましたが、ライオンズ優勝協賛大売出しのポスターを張り出している店は1軒も見かけませんでした。1985年(昭和60年)に阪神タイガースが優勝して、大々的に行われた阪神百貨店の優勝セールの人ごみにもまれ、興奮の1日を過ごしてきたうちのかみさんにとってはまことにものたりない町並みでした。西部ライオンズは、最初は来年からと言っていましたが、再来年の春季キャンプから高知に変わり南郷町で春秋を通じてキャンプを開く予定になっています。多くの経済効果が期待されるライオンズ様サマであれば、もっと協賛セールを打ってもいいのにとひがんでおります。

 そのキャンプに備えてグラウンドのある中央公園は着々と整備が進んでおります。すでに「南郷くろしおドーム」という雨天練習場にも使える施設は完成しております。床面積が60メートル四方もあり、一番高い所は29メートルあるドーム型、全天候型施設で、床はセミアンツーカーコートで、ミーティングルーム、休憩更衣室などを併設したプロの屋内練習場にも対応する施設です。この大きなドーム建造物は鉄骨は一切使わず、この地方特産の飫肥(おび)杉を加工した構造用大断面集成材を使用しております。集成材で作られた大きなアーチ状の梁が何本も並んで屋根を支えている姿は壮観です。

 屋外のグラウンドの観客席は数百人から3千人規模に拡張され、それに見合った駐車場の整備も進められています。こうなると今まで無料であったキャンプ見学が有料になるのではないかと心配さえしております。それでも数十億円もの経済波及効果があると試算されているわが南郷町の一大イベントであるからと大いに期待しているところです。


                        第23号 追加 平成14年8月30日

 室内に入れて見張っていた月下美人がとうとう咲きました。26日の午後から蕾が一つ膨らみ始めました。夕方になるとガクがどんどん開き、蓮の花のようにたくさんの白い花弁が顔を出してきました。夜の9時過ぎには半開きになり、11時に満開となりました。花の直径は15センチほどで、地植えに比べると少し小さいかもしれません。月下美人が芳香を放つとは知りませんでした。部屋中が一晩中芳香に包まれておりました。こんどのは朝になってもまだ開いたままで、ようやく昼前にしぼみ、十分に堪能させてくれました。これに続いて27日、28日にも一輪づつ咲きました。最後の花芽が開くのはもう少し後のほうです。

 今朝は台風15号の風雨が強く、ベランダの植木で背の高いのだけを室内に入れました。エンゼルトランペットをよく見ると、葉陰に大きな蕾が垂れ下がっています。こんな大きなのを気付かなかったのもうかつですが、枝の間から花茎が下がり、その先にガクだけでも15センチはあり、花弁の蕾の長さは20センチ近くあります。花の色は乳白色で、筒型の花先がトランペットのようにそりあがって開くようです。ラベルには「パーシーカラーカメレオン・エンゼルトランペット」とあり、乳白色、中間色、赤味がかったオレンジ色と3色の写真が載っております。カメレオンのように変わって行くのかもしれません。大いに期待しながら見守っております。


                        第23号 平成14年8月24日

 過ぎ行く夏を惜しむかのように涼しい海風が通り抜けるようになってきました。わが家では今年の夏に月下美人が咲きました。初めての花のせいかいくぶん小ぶりで、思いのほか早く咲きました。開花に気付いたのは朝の6時ごろで、もうしぼみ始めておりました。残念がっていましたところ、 思いがけず花芽が3つ伸びてきました。そしてまた今朝、花芽の小粒が1つ顔をのぞかせました。 今度こそ宵のうちから待ちかまえるつもりでおります。鉢植えのエンゼルトランペットは15センチほどの苗から1メートルちかく育ちましたが、まだ花の気配はありません。

 そのほかにも思いがけないことがあリました。以前から随筆を投稿しておりました同人誌「コスモス文学」8月号に掲載の拙作「わたしの宝物」(このサイトのエッセーに収録)が同誌の奨励賞を受賞しました。ところが、これを知った新聞社が取材に訪れました。生まれて初めての経験です。朝日新聞と宮崎日日新聞の地元記者が来ていろいろと尋ね、写真を撮って帰りました。どちらも8月1日にやってきました。といっても共同記者会見とやらをやらかしたわけではありませんが、記事になったのは4日の宮崎日日新聞が先でした。顔写真入の3段抜き記事にも驚きですが、職業柄うまくまとめておりました。その後、朝日新聞は音沙汰無し。やはりボツになったかと諦めておりました。するとようやく20日になって記事が出ました。宮日よりも大きな写真入りで5段抜きの記事がデカデカと載っており、内容もより詳しく述べられておりました。まさに「驚天動地」とはこのこと。手の舞い足の踏む所知らずのユーフォリア。芥川賞でもあるまいし、いくら全国規模とはいえ、たかが同人誌のはしくれ賞にすぎず、それが新聞の地方版に載ったぐらいではしゃぐとは大人気ない。これではならじと、紋付袴姿で金屏風を背にした横綱拝命の口上よろしく、「刻苦勉励」「鞠躬尽瘁」(きくきゅうじんすい)の決意を新たにして「一意専心」文章道に邁進する所存でございます。

 幼稚で無知といえばもう一つ、 わたしはタモリや所ジョージなどが出演するオチャラケ番組はあまり見ません。歌謡番組やドラマにも縁遠い存在です。といって、シリアスやサスペンス、時代劇も敬遠という救いがたい人種です。ですから、若いタレントの名前の98%は知りません。しかし、新聞の番組表などからある程度の情報は入ってきますので、超人気芸能人の名前ぐらいは知っているつもりでおります。例えば、チャラチャラした歌で、ドタバタ飛び跳ねているコギャルのグループが「モーニング娘」という名前で、そのメンバーの出入りが芸能界で大きなニュースになることぐらいは知っておりました。ところが「モー娘」というのが「モーニング娘」の省略形であるとは知らず、別の人気タレントのことだとつい最近まで信じておりました。少し前になりますが、うら若い女性がホルスタイン牛のぬいぐるみを着た牛乳かなにかのコマーシャルがありました。そのタレントが人気を掴み、イッキにスターダムにのし上がったのだろうと勝手に決め込んでいたのです。ようやく事の真実を知りうちのかみさんに告白すると、上から見下ろすような目つきをしておりました。

 これに反省して、これからはドラマや歌、バラエティ番組も見るようにしようと決意を新たにしておりますが、はたしてこの難行苦行、勤め上げることができるでしょうか。


                   訂正   平成14年8月4日

 第22号の中で、映画のロケ地を「南郷町の西50キロの西都市」と書きましたが、「南郷町の北西約120キロ、鹿児島県境のえびの市」の誤りでした。また、題名を「きりしま1945」とロケ時の仮題で書いてしまいましたが、興行名は「美しい夏キリシマ」となっています。
 どちらもお詫びして訂正いたします。

                   第22号  平成14年7月22日

 いよいよ夏本番、南隣の串間市では、10日過ぎに今年の稲刈り一番乗りがあり、今は南郷町でも超早場米の刈入れの真っ最中です。

 串間市といえば驚くべきことが起りました。買収の連座制で最高裁の有罪判決が確定し、全国ではじめて市長が職を失いました。これだけでもおおごとなのに、新市長選挙立候補のために辞職した県議会議員の補欠選挙も同時に行われることになりました。

 厚顔というか恥知らずというか、有罪判決を受けたご本人の野辺修光氏がこの県議選挙に立候補を表明しました。いくら合法的とはいいながらこれを応援する後援会も後援会、立候補の相談を受けた時に支持を表明したそうで、せめて3年ぐらいのみそぎを済ませてという発想は浮かばなかったらしい。これだけ破廉恥だから、買収ぐらいはほんのつまみ食い程度の罪悪感しかなかったのだろう。前市長の立候補の弁もまた良し、「市長として果たせなかった公約を県政の場で実現したい」ということす。応援してくれた人たちの論功行賞を果たせなかった罪悪感が立候補へと駆り立てたのかもしれません。

 この選挙の対立候補は2人で、どちらも前市長反対派だそうです。これでは票が割れて前市長は喜んでいることでしょう。もしこの前市長が当選するというようなことになれば、串間市民は全国にうわっ恥じを晒すことになってしまいます。こんなバカなことが起らないように祈っております。

 南郷町の北西約120キロ、鹿児島県に接する所にえびの市があります。今年になって、ご当地出身の黒木和雄監督による映画「美しい夏キリシマ」のロケが行われていました。黒木監督は1974年にキネマ旬報邦画ベストテン100作品にもなっている「竜馬暗殺」原田芳雄主演のメガホンをとった監督です。その名声はつとに知られていますが、昭和20年の敗戦の夏の情景を、自分の体験と重ね合わせて描いているそうです。氏は1930(昭和5年)生まれで、11月に72歳になります。すでに72歳になっている私よりも8ヶ月ほど年下です。ロケ風景のテレビニュースも流れていましたが、数日前にえびの市で行われる試写会のチケットが足りないので増刷するというニュースにも映画シーンが流れました。

 この時、アレッと思った映像がありました。ロケの時にも感じたのと同じですが、チラッとしか映らなかったのではっきりしません。はっきりしないのにつべこべ言うなとお叱りをこうむるかもしれませんが、どうも腑に落ちないのであえて申します。

 それは日本陸軍が映るシーンです。整列や行進の仕方が変だなと感じていましたが、こんどは旗でした。その映像は10人ばかりで兵隊が行進するシーンですが、その先頭に軍旗を掲げていました。兵隊たちは三八銃を担い、戦闘帽をかぶり、足にはゲートルを巻いた陸軍の歩兵の姿でした。先頭に掲げていたのは16条の旭日旗です。これは日本海軍が軍艦旗として艦尾に掲げる旗であり、陸軍の聯隊(今は連隊と書く)旗にも用いられていました。連隊旗の場合は天皇陛下から連隊に下賜されたもので、もし連隊が全滅するような時にはそれを焼却して敵の手に渡らないようにするほど大切な旗でした。この連隊旗は右下が空白になっており、そこに連隊名を墨書していました。その周囲は幅約2センチほどの金モールで縁取りされ、その外側を紫色の総(ふさ・房)で囲われた重々しいものです。

 映像の中で掲げていた旗はこの縁取りの装飾も、連隊名もない旭日旗で、軍艦旗を代用したようなものでした。だいたいこのような場合は日章旗が普通ですし、わずか10人か15人ほどの隊列に連隊旗を掲げるはずがありません。あるいは軍旗保持小隊というのがあったかもしれません。この小隊では専任将校が最後まで軍旗を守ることになっておりました。将校の姿はなかったと思いますし、連隊長と供にあるはずのこの旗がこの映像のように分隊程度の人数で掲げることはまずなかったでしょう。

 また、兵隊たちがかぶっている戦闘帽には帽垂れが付いていました。これは後頭部を日射から防ぐために付ける同色の二つに分かれた布のことです。断言は出来ませんが、この帽垂れは戦地(外地)で用いられることはあったが、内地ではつけなかったように思います。



                   第21号  平成14年6月25日

 もう早稲の花が咲き終り、実がついて穂が垂れ始めました。この調子では来月の終わりには稲刈り一番乗りが始まりそうです。

 南郷町の穀倉地帯はJR南郷駅の南に広がる3ヘクタール足らずの盆地です。この田んぼの中のところどころに民家や、わずか人口1万人少しの町には不釣合いな箱もの、南郷ハートフルセンターもあります。これらはほとんど昭和40年以降、ハートフルセンターにいたっては平成7年に建てられています。古い家は周囲の山裾のあたりを取り巻くようにして建っております。前にも書いたと思いますが、昔の人は稲作を最優先させ、平地は全部田んぼにまわし、自分たちの棲家は多少不便でも傾斜地に退いていたのだろうと思っておりました。

 私の住んでいる外浦(とのうら)はその田園地帯の南に広がる外浦湾に注ぐ潟上川と西の山に挟まれた細長い地域です。「とのうら」は字面から「そとのうら」の訛ったものだろうと容易に想像できますが、その奥にあるはずの内浦はどこなのか分かりません。

 今年の5月から町主催の生涯学習講座「南郷歴史探訪」を受講しております。その資料を見てようやく納得しました。外浦は文字通り外の浦で、昔は現在の穀倉地帯はもちろんのこと、ずっと奥の方まで昔は海だったのです。

 南郷町には南郷川と潟上川が北と南にほぼ2キロほど離れて西から東の日向灘へと向かっております。南郷川が細田川と合流して名前が変わるあたりで北上し、ふたたび東南へと向きを変えて海に注ぎます。この形は潟上川も同じですが、これらの川沿いのわずかな低地の他は全部が山林です。

 この二つの川が北に向かうあたりは、今から5百年ほど前は繋がっており全部が海でした。つまり外浦の奥に内浦があり、そこは千石船(約150トン)ほどの船が10隻以上停泊できる南九州随一の港があったそうです。その港からは風向き次第ではいつもの潟上川コースをとらずに細田川コースに変えて日向灘へと漕ぎだしていました。つまり、今のJR南郷駅あたりの高台はそのころは島だったのです。

 外浦港(内浦も含む)は平安時代から海上交通の要路であり、7〜8世紀は遣唐使の基地として、また、10世紀ごろは日宋貿易の基地として栄えていました。14世紀の遣明史の帰路が南海路に変わってからは外浦が帰路の寄港地となり、それが南郷の多くの名僧を生み都に先駆けて文化の花開くきっかけとなっていました。

 その後数百年にわたり何本もの堤防が築かれ、次第に干拓が進んで陸地化していきました。現在の南郷盆地の田んぼが耕地整理されて稲作が出来るようになったのは大正4年以降であり、本格的な圃場整備が終ったのはなんと昭和57年のことだったのです。

 だから、南郷盆地の山裾に民家がへばりつくように取り巻いていたのは、貧しい漁師の”とまや”の名残だったのです。そのころの外浦はひとたび海が荒れると容赦なく大波の押し寄せる磯であり、土地の人たちはずっと山の上の方に住んでいたのではないでしょうか。いずれにしても、大型クレーンも掘削機もブルドーザーもダンプもなく、人力だけを頼りに自然と戦い、南郷の穀倉地帯を築き上げてくれた先人たちの苦労には頭が下がります。

                     第20号  平成14年5月25日

 窓の外の国道448号線を南へ向けて爆音どどろかせながらツーリングの1隊が通り過ぎていきました。時にはサーフボードを突っ立てていることもあります。この人たちは15キロほど下がった日南海岸随一のサーフポイント、恋が浦へ向かっているのでしょう。

 昔、カニ族という種族がいました。黒潮にのってようやく大陸から分かれた日本列島の海辺にたどり着いた漁労民族で、磯をカニのように横歩きしていたからつけられた名前ではありません。現代日本の一昔前の若者の風俗です。ようやく高度成長期に入り、人々の生活のもゆとりが生まれてきましたが、まだまだ長期休暇をとって海外旅行などは夢のまた夢の時代でした。真っ先に若者、それも学生が夏休みを利用して全国を放浪する姿を目にするようになりました。できるだけ費用を節約するために時には野宿もいとわす、所帯道具一式をリュックサックに詰め込んでいました。いきおい、リュックは横長大型となり、それを背負うと身体からかなりはみ出してしまいます。駅構内の雑踏の中や、電車、バスの乗り降りには身体を横にしてすり抜けておりました。もっぱら横歩きを得意技としていたのでこの名前が付けられました。これが今はなきカニ族です。

 若者たちも豊になり、パスポートとビデオカメラを携えて搭乗ゲートをくぐっていきます。あくまでも地表にこだわり、2輪車の醍醐味を堪能しようとする人たちもおります。その人たちは所帯道具を後ろの座席に積み込み、ネットで荷造りをしていますが、かならず銀色にコーティングされたウレタンマットを丸めて積んでおります。さしずめ彼らは銀マット族とでも呼ぶのでしょうか

 初夏のおとずれとともにさっぱりした食べ物が恋しくなります。先日、ワラビ餅が食べたくなってワラビ餅粉をスーパーなどで探しましたが見つかりませんでした。出来上がったワラビ餅は売っているので、食べないわけではないようです。また、粉類は大阪よりはずっと豊富です。大阪ではそば粉を置いている店は少数派ですし、あったとしても5百グラム以下です。こちらではどこでも1キロ入りを置いています。その他に、白玉粉、白玉だんご粉、だんご粉、かるかん粉、上用粉.煎餅粉は並と特、くず粉、きな粉、はったい粉、きな粉に至っては青きな粉まであるのに、どういうわけかワラビ餅粉はありません。何回も探し回ってようやく小さな店で見つけました。

 そういえば、”ふき”もありません。代わりに”つわぶき”の茎を売っていました。去年の夏に”はも”を探しましたが、これも見つかりませんでした。地元で獲れることは確かですが、京阪地方へ送るそうです。こんな骨っぽい魚を食べなくても、いくらでもうまい魚があるからでしょうか。しかし、驚いたことに、赤魚を売っています。それもかなりのウエイトで陳列してあり、バーゲン品になることも珍しくありません。なにもアイスランド産と表示された魚を食べなくても、安くて新鮮な”地どれ”の魚がいくらでもあるのに、こればっかりはよく分かりません。


                        第19号  平成14年4月23日

 このごろ鰹一本釣り漁船の出入りが激しくなっております。ひどい時は前の夕方5時ごろに岸壁に接岸し、あくる朝の5時にはいなくなっていることもあります。母港に停泊している間が12時間足らずとはまことに忙しい。つかの間の帰港でも、やはり我が家が懐かしいのかもしれません。鰹はかなり北上しているのではないかと思いますが、店頭には大型ばかりで、二人家族にころあいの鰹が並んでいません。それでもお向かいさんから丸ごとの中型1匹を貰って舌鼓をうちました。

 昭和41年の新婚旅行の時に、鹿児島経由で日南海岸を北上したのがこのあたりを知るきっかけでしたが、その時のバスガイドさんが鹿屋のあたりの墓地が花いっぱいに飾られているのを説明してくれたのが印象に残っていました。このあたりの墓地でも同じです。外浦の墓地は集落の南の方にありますが、北の方から旧街道を通って墓参りに行く人を窓からよく見かけます。新聞紙で包んだ花束を抱えた姿は帽子にエプロン、黒っぽいパンツのご当地で定番のスタイルです。大阪のたとえば服部霊園では、ふだんは枯れ尾花の花筒にも、せめてお彼岸ぐらいは新しい花が供えられていますが、その花のかけらもない墓も見かけます。ところがこちらではいつ見ても花の絶えることがありません。それだけご先祖様を敬う気持ちが強いのでしょう。

 こちらの苗字には関西にはない特色があります。河野、甲斐、長友というのをよく見かけます。この団地16軒のうち3軒が河野姓です。最初に下見にきた時には、ひょっとしたら町の有力者が情実で身内を入居させているのではないかと思いました。ところが入居の挨拶の時に聞いてみると縁戚関係はないそうでした。河野家の葬儀を河野葬儀社が取り仕切っていることもありました。ロンフレという家電とホームセンターのチェーン店があります。このロンフレというのはロングフレンドの略で、オーナーの苗字が長友なので納得したのはかなり後のことです。

 ちなみに、南郷町の個人電話帳で頭文字が”か”は319軒ありますが、その中で「河野」姓は146軒、「甲斐」は7軒、その他に「長友」は12軒ありました。


                        第18号  平成14年3月25日

 このところ視界がなんとなく黄ばんでおります。はるか高千穂山系を越えて南宮崎まで飛んできた黄砂現象のようです。しかし、春は確実に訪れております。驚いたことに大阪の開花宣言のほうが宮崎よりは先に行われました。東京のさくらも満開になりました。

 私の手許に日付が昭和32年のわが家の戸籍謄本が残っております。そのころは薄い和罫紙が使われていましたがか、なり変色しています。青いカーボン複写の手書で、一目で祐筆を職とする人の字と分かる達筆ですが、おしいことにこれも色褪せている。

 この古色蒼然とした戸籍謄本の中にキクという叔母さんの名前があります。この人は大正9年に12歳で養女に出されている。養子縁組の先は宮崎県南那珂郡吾田村大字人高となっている。ここは戦後の町村合併で日南市戸に変わったが、私が住んでいる南郷町の北隣である。叔母と甥が1本の糸で南宮崎に繋がれているのも因縁話めいている。この赤い糸をたぐって日南市の戸籍課へ行き、謄本を示して調べてもらうと記録が残っていた。娘さんの委任状を取り寄せて除籍謄本を発行してもらった。

 これを見るとキク叔母さんは戸高へ来たわけではなく、その頃には養父母となった人たちも長崎に住んでいた。たまたま、本籍地として戸高の地名が載っていただけのことだった。この謄本の中にある24歳の若者の婚姻記事が面白い。戸籍に入籍した翌日に新妻は長男を出産しているのだが、その12日後には協議離婚している。新妻は19歳で、古い地名を調べると隣村から来ている。どうも夜這の末の、今風に言えば「出来ちゃった結婚」のようだ。ところが、戸の番地を頼りに近隣を聞いてまわったところでは、もともと庄屋クラスの家柄であったらしい。絶対権力者の戸主や一族の長老たちにしてみれば、そんなふしだらな娘を家に入れることはできなかったのではないだろうか。内々で済ますはずのところが、跡取の誕生となると話は別だ。男子出産と判ってから婚姻届を出し、出生を1日遅らせて長男のきれいな戸籍を取る。産婦の状態の落ち着いた頃を見計らって、しかるべき金額を上乗せした手切れ金を持たせて実家に帰らせたのではないだろうか。もちろんこれは私の独断と偏見にもとずく推理であり、現実はもっと奇なるものかもしれない。

 4月1日からホームページのURLが変わります。お手数ですが修正してください。
    旧 http://users.goo.ne.jp/avalonis/      新 http://users.hoops.ne.jp/avalonis/

 宮崎の面白い言葉を紹介します。
 ”いっちゃが”というのは「いちゃがスタジオ」というテレビ番組にも使われています。初めのうちはなんのことか分かりませんでしたが、地元の人に教えてもらうと河内弁で言えば”ええやんけ”ということのようです。”ちゃが”という語尾はよく使われるとのことですがまだ聞いたことはありません。あるいは聞いていても分からずに聞き流しているのかもしれません。
 ”へんとしれん”というのもあります。「みやざきの歌」の歌詞に出てきます。今風の若い女の風俗を歌ったものですが、”些細なことですよ”という意味らしい。これを大阪弁で言えば”なんぼのもんやねん”とでもなるのでしょうか。


                        第17号  平成14年2月25日

 20キロばかり北の海沿いの岩山に鵜戸神宮があります。岩窟の中に社殿がある、この地方では有名な神社です。その境内で山桜が満開になりました。日ざしは春がすぐ近くまで近付いている事を知らせてくれます。ほとんどの田んぼは田起こしが終っています。

 去年の稲刈りの後放置されていた田に耕運機が入り、土を掘り返していくと鳥たちが寄ってきます。土の中から掘り出される虫をついばむために、耕運機の後を群れながらついていきます。この虫取りにも序列があり、優先権を持っているのはシラザギです。次席のカラスはシラサギがいなくなるのを遠巻きにして待っています。シギに似た小鳥がその外側で辛抱強く待っておりますが、食いっぱぐれること請負です。

 そういえば、こちらではあまりスズメを見かけません、電線に列をなして止まっているのを見たことがありません。トビなどの猛禽類が多いことが原因かもしれません。

 ベランダから見える岸壁でゴミを捨てるひとをよく見かけます。なんと公徳心のない人たちだろうと思っておりました。たまたま散歩に出て現場にでくわしました。よく見ると男の人がボールに入れて持ってきたのはゴミではなく魚のあらでした。家庭ゴミとして収集日に出さずに海に捨てて魚に食べさておけば、いずれ廻り回って漁獲になって帰ってくるという漁師ならではの知恵だと悟りました。嬉しくなって話しかけ、いろいろ教えてもらいました。

 今年もカマスがやってきました。去年のように湾内に入ってこないので、釣り人たちはいちばん外側の突堤の外海側に行儀よく並んでで竿を入れていました。去年のように終日釣れまくるということもなく、午後には突堤から人影は消えていました。釣果も去年と比べるといくぶん小ぶりのものが時おり上がる程度でした。話ではカマスが外浦で獲れだしたのはおとどしあたりからだそうです。

 外浦漁港の鰹一本釣り船の出入りが激しくなりました。今日も突堤に停泊しているのは1隻だけです。どこかで魚を下ろして母港に帰ってきても、2〜3日の小休止ですぐに出港していきます。今年は去年よりも成績がいいように聞きました。安い鰹が食べられるだろうと期待しております。

 もうすぐ移住2周年を迎えますが、まだまだ知らないことがたくさんあるようです。窓の外には国立日南海中公園を巡る水中観光船「マリンビューアー」の乗り場があります。気の毒なほど営業成績は悪く、平日には時間がきても客がなくて出港せず、あるいは乗客2人だけということもあります。これでは燃料代にもならないだろうと同情します。営業成績を少しでも上げようと、話題作りにカモメの餌付けをしていましたが夏には居なくなりました。湾内ではなく外海の航路に沿った所にねぐらを移したのだろうと思っておりました。ところが年末には湾内に帰ってきました。これも聞いてみますと「カモメは渡り鳥じゃけん」と言われました。エエッ、「カモメの水兵さん」を踊る幼稚園児のセーラー服は夏服だし、「津軽海峡冬景色」のこごえるカモメは冬そのものです。だからカモメは一年中居るものと思っておりました。さっそく図鑑で調べてみると、夏鳥もいれば冬鳥も留鳥もいます。ここ外浦のカモメさんは冬鳥でした。また一つ賢くなりました。

                        第16号  平成14年1月25日

 破綻した第3セクター事業のうちでも最大級の宮崎市シーガイヤが、世界的なホテルチェーンの米スターウッド・ホテル&リゾート・ワールドワイドに引き継がれた。

 施設内のホテルが「ホテルオーシャン45」から「シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート」に変わり、その名前を飾ったロゴマークの除幕式が10日に行われた。突き当たりの壁に掛けられた幕に向かい赤い絨毯が敷かれていた。その両側にマイケル・グレニー社長や松形宮崎県知事などの関係者一同が向かいあってイスに座っていた。その前には赤いテープが張られ、それぞれの間にはポールが立って、紅白のリボンが飾られていた。テープカットのようなしつらえでもあるが、両側から向かい合うというのもなんとなくしっくりしない。

 社長と知事が除幕の紐を引いている姿がテレビで流されたが、その後にはテープカットも行われた事を新聞報道で知った。除幕とテープカットを重ねてやるのも変であるし、そのやり方は全員が鋏を入れるのである。この複数のテープカットというのも日本独特の姿であろう。

 一着の競走者が栄誉を受けてテープを切りながらゴールインすることから、新しい施設などの開始を祝して、関係者の中でもっとも功績のあった人に栄誉が与えられてテープカットをする習慣が根付いたのだと思っている。ところが日本ではこの人選についての厳密さがなくなってしまった。どうしても義理を欠けない人が複数いたときに、エイとばかりに二人並んでテープカットに及んだ。その後は一瀉千里で、真っ白い手袋に金ぴか鋏を持ち、だらりとカットされたテープをさげて所在なげに並ぶ姿が定着したのだろう。

 この人たちは必ず胸に赤い造花をつけて、それにはご丁寧にも紅白のリボンまでぶら下がっている。この造花の習慣も日本独特のものである。グレニー社長も白い造花をつけていた。キリスト教やイスラム教圏では見られない習慣だが、郷にいればなんとやらで、内心苦笑いしながらつけていたのかもしれない。

 この習慣は西欧のコサージュとも少し性質が違うように思うが、儒教、仏教圏には見られるようだ。タイなどではミクロネシアなどで来訪者に掛けるレイの花輪のような感覚で蘭のコサージュを胸につける。台湾や最近の中国のセレモニーの時にも蘭の花を飾っているのを見たことがある。

 日本の赤い造花の習慣はどうして定着したのだろうか。大きな会合の時、出席者の中で特に重要な人を主催者側が識別するためにつけたのが始まりではないだろうか。それが次第にエスカレートして最重要人物にはいちばん大きな造花というように階層化していった
そうなると、まるで北朝鮮のよぼよぼ大将軍が両胸一杯に勲章を飾ってよろよろと歩いている姿と重なるように、特大品で胸を飾ってふんぞり返ることになる。

 昨年の秋、上海で行われたアジア太平洋経済協力会議には、世界各国から元首、閣僚クラスの大勢の出席者が一堂に会し、事務方は識別に苦労したと思う。中国側が採用したのは造花ではなくバッジだった。ブッシュ大統領がつけるのとスタッフの人では色を違えて見分けていた。先日終った東京でのアフガニスタン復興支援会議では、だれも造花をつけていなかったのでホッとした。


                        第15号  平成13年12月26日

 年の瀬も押し詰まってきました。今年を振り返ってみますとじつに多くの出来事が次から次へと起りました。小泉政権の誕生に期待を寄せましたが、改革断行は尻すぼみの感じで、やはり自民党があるかぎりは日本の将来は暗いようです。

 2000年4月には2百ドルに近かった日経平均の米ドル換算値が80ドルを切りました。外資にとっては絶好の買い場のはずですが、ゴールドマンサックス、メリルリンチなどの外国証券会社が戦線を縮小しております。いよいよダメだと見放したのかもしれません。
 来年はよい年であってくれればと願っておりますが、ひょっとして街が血に染まることになるのでしょうか。一攫千金を夢見るのであれば、その時に備えておく必要があります。

 私にとっては今年もべつに変わりばえのない年でしたが、しいて言えば、今年の第4回 宮崎文学賞 随筆部門で準佳作に選ばれました。来年は第1席入賞を目指してがんばります。

 悪戦苦闘、試行錯誤の末、ようやくホームページを立ち上げることができました。
       URL:http://users.goo.ne.jp/avalonis

 お暇な時に開いて見てください。なお、南郷通信はこれに含まれておりますので、次回からメールでの配信は行いません。予定としては、毎月第4週の後半に掲載します。

 皆様方の来年のご好運をお祈りいたします。                        

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                        第14号  平成13年11月25日

 グラウンド・ゼロと呼ばれているニューヨークのWTCビルの跡地では、今日も瓦礫の撤去作業が続けられ、絶え間なく粉塵が舞い上がっております。

 もう2ヶ月以上も前になりますが、当時のテレビで同時通訳が盛んに行われておりました。英語の最後を聞いてからそれを日本語の先頭に持ってこなければならないので、フランス語やドイツ語へ訳すのに比べればたいへんな作業です。通訳者の中には流暢な人もいれば、しどろもどろの人もいました。

 ただ、性別では女性通訳者が圧倒的多数を占めていました。これは言葉についての能力の差だと思います。一般に女性はおしゃべりだと言われています。奥さんがたがおしゃべりを始めると果てしなく続きます。男はものの5分も話すとだいたい用件は終わり、後はいつきりあげればよいのかそのタイミングを計って、相手の顔色を窺っているものです。

 紫式部や清少納言の昔より、言葉の感性で女性が優れているのは紛れもない歴史的事実です。男児に比べれば女の子の方が言語能力の発達が格段に早いのも、女のどもりがいないのも医学的事実です。

 だいたい口喧嘩で男が勝ったためしはありません。夫婦喧嘩でもそうですが、男は理屈で相手を言い負かそうとします。しかし、口喧嘩はもともと論理ではなく、なんでもいいから、いかに相手に打撃を与える弾を数多く打ち込めるかで勝負が決まります。女性のミサイルは正面から飛んでくるかと思えば、がらりと方向を変えて斜め後ろからも、また横からも飛んできます。こうなると男性は防戦一方に追い込まれてしまいます。とうとう最後には口で勝てないのでつい手が出てしまうことになります。

 この原因ははっきりしています。つまり脳の構造が男と女では、こと言語に関するかぎりまるで違っているからです。ご承知のように脳は左右に分かれており、おおざっぱに言うと右脳で直感的、感覚的な判断を下し、それを電気信号に変えて左脳の言葉を司る言語野に送ります。この言語中枢で言葉に組みなおして声に出している。これが基本的な構造であり男の脳はこれだけしかない。

 ところが女の脳は右脳にも小さな言語野が付いている。これはパソコンでいうとメモリーに相当するもので、いちいち左のハードディスクと情報のやり取りをしなくてもすみます。しかも、左右の脳の間を繋いでいる脳梁は、ちょうどウインナーソーセージの両端を持って曲げたようで、前のほうは釣り針のように湾曲した形をしています。これが両方の脳の中心溝に沿って前から後ろに収まっております。この脳梁の中を左右の脳の情報を伝える神経線維、つまり電線が通っています。ところが女性の脳梁の後部はピンポン玉がくっついたように膨らんでいるのです。とうぜんそのぶんだけ断面積は広く、より太く、より多くの電線を通すことができます。このために左右の脳で情報のやり取りはだんぜん有利になります。

 パソコンでいえば、16ビット機で80メガヘルツのCPUにメモリーなし、ハードディスクは100メガバイトの前世代機と、32ビット機の1ギガ超のCPU、おまけに512メガのメモリーと60ギカのハードディスクを備えたマシンと勝負するようなもので、はなから勝ち目はありません。

 世の男性諸君に忠告する。たとええどんなに親しい女性とでも口喧嘩になれば、なんとか相手をやり込めようなどという無駄な抵抗を試みずに、ひたすら貝のように沈黙を守りじっと嵐が通り過ぎるのを待っていることである。

                        第13号  平成13年10月26日

 小泉政権が発足してから半年が過ぎました。世界中から期待されていた改革はなかなか進みません。抵抗勢力が出てくることは最初から予想していたはずなのに、それを乗り越えられずにおります。そればかりでなく、任命した閣僚の中からも、抵抗の姿勢を示す人も出てきております。たとえば、柳沢金融相は金融界よりの姿勢示し、一刻も早く着手しなければならない不良債権処理は遅れていく一方です。

 今年中に金融改革が進まないと、欧米の機関投資家は、日本を後進国並の市場としか見なくなります。後進国というのは、韓国、台湾、香港、シンガポールの4虎でも、マレーシア、タイ、インドネシア、フイリッピンでもなく、ラオス、カンボジア、ベトナム、ミャンマー並ということです。その兆しは投資資金の流出がなかなか止まらないことからも想像できます。

 小泉首相の態度も改革の鬼の獅子吼調から、そつなく説明してその場を切り抜ける官僚型に変わってきています。このままだらだらと時間ばかりを空費していると、急速に支持率が落ちていくことは目に見えています。国民の圧倒的な支持を受けて颯爽と登場した政権が、みるみるうちに色褪せ、泡のように消え失せたのを目の当たりにしたのも、そんなに古いことではありません。

 細川護煕氏は、肥後54万石の細川家の末裔として、熊本県知事から衆望を担って平成5年に首相の座に付きました。しかし、連立政権のために政策の一貫性を保てず、さまざまな抵抗勢力のために、大手、からめ手からの攻撃でにっちもさっちもいかない袋小路に追い詰められました。窮状打開の突破口のつもりでやった起死回生策は、とつじょ、深夜に記者会見を開いて発表した国民福祉税構想でした。

 あまりの唐突さに「殿、ご乱心か」と周囲を驚かせました。お公卿さんの近衛文麿が内閣をおっぽり出したのと同じように、肥後の殿様もその2ヶ月後に、在任期間がわずか8ヶ月で辞意を表明しました。

 だんだんと追い詰められてきてどうにも身動きが取れなくなると、局面打開のために突破口を開こうとするものです。小泉首相が取る次の一手とはどんなものでしょうか。

 テロ対策3法案の成立に理解を求めようとして、民主党の鳩山代表と会談しましたが物別れに終りました。一昨日、法案成立には野党の理解も必要だと山崎幹事長に指示しましたが、翌日には与党内の合意が大切だと、事実上の撤回をしました。場当たり的な対応ですが、なんとなく民主党に秋波を送っているようにも見えます。ひょっとしたら、法案理解は口実で、ほんとうのところは、鳩山代表と新党結成について話し合ったのではないだろうかと、希望的観測をしました。

 小泉準一郎が果断に改革を実行するのか、あるいはこのまま自滅していくのか、今年の暮れあたりが正念場でしょう。少し前に書いた下手なエッセーの結語で終わりとします。

 いずれ30年後の孫の時代には、世界経済の中心となった東アジアで、日本はアメリカと中国の間に挟まれる日がやってくるだろう。その時にいくつかの選択肢の中で、この10年間のようにもっとも愚の愚策を選んではならない。それは昔のユダヤの民のように、住むべき国がなくなって放浪するだけなら、まだ民族としてのアイデンテティもあるが、日、漢、朝の民族がルツボの中で溶けあってしまい、日本民族の伝統と文化が地球上から消滅する日を迎えることになるかもしれないからである。

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                        第12号  平成13年9月21日

 今月は新宿の雑居ビル火災に始まり、その後は狂牛病、台風接近、アメリカの動じた初テロと大事件が次から次へと起りました。
多数の死者を出した新宿の事件は、あとから起こった事件にかき消されてしまいました。同じように狂牛病の関係者も、台風とアメリカのテロ事件の陰に隠れて時間を稼ぐことができました。

 新宿ではガスメーターのことで放火説が浮上しておりましたが、メーターをパイプに繋いでいるジョイントがアルミ製のために溶けてしまったという報告がどこからともなく出てきて、テレビなどのメディアもその線からの追求をやめてしまいました。

 私はこれがどうも腑におちません。ガス管とメーターを繋ぎ止める部品はユニバーサルジョイントと呼ばれるものですが、これはその両側のパイプなり部品なりを廻さずに、このジョイントを締めたり緩めて、取り付けたりはずしたりできる部品です。ナットと同じようにネジですが、パイプレンチという工具を使って締めたり緩めたりします。その接合面にパッキングを嵌めて、きつく締め付けることでガス漏れを防ぎます。とうぜんきつく締め付けるので、強度の落ちるアルミナット、ジョイントなど聞いたことがありません。

 ためしにわが家のガスメーターのくだんのジョイントをヤスリでこすってみましたが、鉄のように思われます。阪神大震災の焼け跡でガス管とメーターだけが残っている映像をよく見ました。新宿と南宮崎のド田舎では違うのよといわれるかもしれませんが、アルミ地金はトン19万円異常します。鋳鋼の値段は知りませんが、一番高い電気亜鉛メッキ1ミリ鋼板の値段がトン5万円もしないのに、強度も融点も低いアルミ材を使う、工学的、経済的合理性はありません。

 台風は関西以東に猛威を振るいましたが、その陰に隠れて狂牛病関係者、とくに農水省は矢面に立たされるタイミング逃れました。しかし、知れば知るほど農水省というところは外務省以上の伏魔殿です。国民の健康、生命、財産を守るという観点よりも、農林・漁業、畜産・山林従事者とその関連企業の利益を優先させております。

 アメリカ同時多発テロでペンシルバニア州ピッツバーグ近郊に墜落したユナイテッド航空93便に注目しました。私はこれが第1攻撃機であり、標的はホワイトハウスであったと推測しました。もし私がテロ立案者で、攻撃機が4機あるならば、ワシントンとニューヨークに2機づつ分けて、ホワイトハウスを第1、ペンタゴンを第2目標に選ぶ方が、より大きな戦果をあげることができるからです。

 ホームページを開きました。大手ウエッブサイトの無料ホームページに登録したのですが、ページデザインがわからないので、サイトの出来合いのページを使いました。ところがこれがダサイうえに、。こちらも不慣れで使いきれません。プレビュー画面もわからないので、改行がうまくいったのか、ページの背景と文字色が合っているのかも確認できません。一発送信の後で画像を見てびっくり、みるに耐えないページになっております。
 この中で使えるのは日記帳のアイコンだけで、これをクリックすれば「南郷ダイアリー」として、狂牛病とテロ事件をとりあげた数日ぶんが掲載されております。
 URL:http://www.giocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/1812


                        第11号  欠番

                        第10号  平成13年8月26日

 秋の気配が朝夕に感じられるようになりました。忙しげに飛び交っていたツバメも11号台風のかなり前に南の島へと帰っていきました。大阪では里人として潮の満ち引きなどには無頓着でしたが、宮崎の海人(うみんちゅ)となってからは、月齢と干満には敏感になりました。先日の台風でもはるか南の大東島あたりを北上して九州直撃の気配を感じると、台風通過時刻が1年中でいちばんの大潮と重なるので心配しました。北東に進路を変え、四国、関西方面から東海、関東へと進みました。こちらはたいした風もなかったのですが、翌朝には防潮扉が閉められ、そのうち側の岸壁から海水があふれているのがベランダから見えました。

 今年の魚は不漁です。宮崎県南端の串間市の漁港では、毎年飛び魚の掬い取り観光漁があります。始まったというニュースはありましたが大漁の知らせがありません。去年のように大きな飛び魚が2匹百円で刺し身の舌鼓が打てません。魚の種類も少なく、名物の鰹も高止まりのままです。これが普通で去年が特別だったのかもしれませんが、淋しい夏でした。

 こちらの女性はよく働きますが、そのせいかどうか首にタオルをかける習慣があります。たしかに労働で汗を流している時には便利で、スタイルよりも実利を尊ぶ熟女から若奥さんに至るまで定着しています。はては色気づき始めた中学生まで、自転車下校時にセーラー服とともに首のタオルを颯爽となびかせているのは興ざめです。

 ご当地の地理もなんとか頭に入るようになってきましたが、酒と薬のデイスカウント店にパチンコ店や、接骨医、あんま、マッサージに、カイロプラクティックなどが、大阪の町並みに比べると多いように感じます。私の住んでいる外浦地区は戸数4百ほどですが、骨接ぎ関係が3軒あります。人口比では少し多いような気がします。また、九州は焼酎の本場ですが、大酒を食らって胃をこわし、あわてて薬屋に駆け込む関係で酒屋と薬屋が多いのかと思ってしまいます。

 南郷町には本屋はありませんがパチンコ店は3軒あります。日南市を含めてパチンコ店の新装開店の折込チラシが3日に空けずに入ります。団地から数百メートル離れたところにもパチンコ店があります。いつ通っても広い駐車場は平日の昼間からほぼ満杯です。大漁の時には大散財、しけの時にはやけっぱちでパチンコ通いをしているのでしょうか。なんとなく漁師気質をみるような思いがします。

 魚の本場ですが、こちらにも回転寿司があります。日南市内でダイエーが出店予定で確保していた土地の所有者が変わり、新しい食品スーパーと併設してダイソーと回転寿司も店開きしました。さぞかしネタも豊富で旨いだろうと食べにいきましたが期待はずれでした。品質、品数、値段、どれをとっても「くら」の足もとにもおよびません。正直言って騙されたような気分でした。

                  第9号  平成13年7月22日

 北隣の日南市で14日に稲刈りの一番乗りがあり、19日には南の串間市でも超早場米の出荷セレモニーが行われました。南郷町の稲も穂を垂れ、黄金色に波打っております。

 今度の日曜日に参議院選挙が行われますが、その結果進められる改革に対する抵抗勢力との戦いの結果を注目しております。小泉側の戦略としては最悪の場合、自民党をつぶしてでも改革の実行を目指そうとするでしょう。これまでの経過は私の希望的観測と大きくかけ離れてしまいました。

 総裁戦のさなか、私がいちばん期待した新総裁は野中氏でした。2百%ありませんと言いながらも周囲から推され、この難局を打開するのが政治家の使命であり、一身をなげうってとかなんとか言っちゃって、しぶしぶのポーズで新総裁に就任する事を望んでおりました。最悪の場合でも、橋本氏があまり内容のないことでも重々しい語り口で色付けして、2度目の総裁のイスに座ることを望んでおりました。

 そうすれば、どちらも旧来の利益誘導型の政治手法を踏襲し、ますます国民からの支持を失い、自民党崩壊のスピードが速まるからでした。ところが地方票を3票にしたのが大間違い。ガス抜きのつもりが大噴火の火砕流となって押し流されてしまった。大阪南の高島屋前でバスの上から総裁立候補者の第1声、麻生、橋本、亀井、小泉の揃い踏みに聴衆の反応が一番強かったのは小泉氏でした。彼がマイクを握ると、声にならないどよめきが起こったのがテレビの画面からも伝わってきました。

 選挙戦の後半、小泉優勢の見通しになると長期金利がじりじりと下がり始めました。つまり、国債の需要が多くなるか、供給が少なくなるという見通しで、この場合は供給減で、小泉政権の誕生を織り込み始めたのです。まあいいか。自民党が生き残っても、新しい政治が開けるのであればと思いました。ところがこの頃の小泉首相へのフィバーぶりはいただけない。

 ダウ平均が6千ドルを超えたあたりから、FRBのグリーンスパン議長が「理由なき熱狂(ユーフォリア)」と警告を発しつづけましたが、まさにこれ以上のユーフォリア。街頭演説会場には早くから大勢の支持者たちがつめかけ、だれが用意したのか日の丸の小旗さえはためいている。これでは皇居の一般参賀と変わりがないし、ハイル・ヒットラーと熱狂した、1940年ごろの閉塞したドイツ国民の姿と重なってしまうので、もう少し醒めた接し方もあるのではないかと心配する。

 もうすぐ自民党の勝利で選挙が終わり、いよいよ改革実行の時がきます。鳴りをひそめている抵抗勢力はあらんかぎりの力を振り絞って反撃を試みることでしょう。このせめぎあいがどう進むのかを、世界中の機関投資家が注目しております。

 野党の党首たちが言うとおり、改革の中身については具体生のない言葉が使われています。戦術としてはとうぜんだとは思いますがそれだけに困難であることの裏返しでもあります。それを察して資金が外国に引き揚げられつつあるのが最近の株安の一因でしょう。

 もし、抵抗に負けて改革が骨抜きになってしまえば、いよいよお先真っ暗。日経平均が8千円になる日がくるかもしれません。言葉どおり、自民党の総裁ではなく、日本の首相として行動してくれることを心から祈っております。

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                  第1号  平成13年1月15日

 宮崎県の片田舎、南郷町外浦(とのうら)地区に引きこもってのんびりと暮らしております。あまりに単調すぎてボケてしまいそうなので、今年から月に最低1回、身近な出来事や感じた事を発信して、多少なりとも緊張を保ちたいと願っております。

 わずらわしいメールかもしれませんが、その時はお知らせください。BCCリストから削除します。

 長年住みなれた大阪を離れ、こちらに移ってから9ヶ月が過ぎました。南郷町は面積が63平方Km、人口1万3千人ほど。目井津(めいつ)外浦、栄松の漁港で約25%の人たちが漁業関係の就業者です。外浦湾は南に開けた湾口の防波堤の中に南北7百メートル、東西5百メートルほどのほぼ長方形で、北西の角に潟上川が流れ込んでいます。外浦地区は西に2百メートルクラスの山と潟上川、そして湾に挟まれた細長い地形で、戸数4百、千3百人ほどの漁業の集落です。

 潟上川が流れ込む護岸に沿って宮崎名物のパームツリーの並木が続き、国道448号線が通っています。ちょうど河水が湾に注ぎ込む汽水域のあたりに、国道を挟んで我が外浦団地が南に向いて建っています。その少し先で、西の山が海にせまるあたりに、日南海中公園円を巡る水中観光船マリンビューアーの乗り場があります。

 4月にはウグイスが鳴き始め、5月にはツバメが軒下を飛び交います。1棟しかない団地の3階に住んでいますが、南のベランダから外浦湾を望み、陽光にきらめく紺碧の海と湾口のえば(岩礁)を飽きずに眺めております。冬の暖かさは予想しておりましたが、以外だったのは夏も涼しいことです。宮崎県の気象区分は細長い田の字をしており、南北の山沿いと平野部に分かれております。ここは南部平野部の中でも温暖で夏は涼しいところです。テレビの天気予報の小さい小窓で示される大阪の最高気温よりも、いつも3度から5度は低く、風通しもいいのでクーラーは取り付けずに済みました。むしろ、北側の窓を開けたままでは寒くて寝られないほどでした。

 魚は新鮮で安く、道は空いているので運転は楽といい事づくめではありません。テレビは4チャンネルしか映らない。新聞の夕刊がない。本屋も目医者も皮膚科の医院もない。風呂場にはシャワーがないし、台所の流し台やベランダが狭いと女房はこぼしています。まだバキュームカーが走り回って、時には田舎の香水をプレゼントしてくれます。

 しかし、このようなマイナスを補って余りある得がたい環境にたいへん満足しております。できればこの地にとけこんで骨を埋めたいものだと願っております。


                       第2号  平成13年2月3日

 若いときには時間はゆっくりと濃密に流れていた。何事も経験は新鮮で、知識の吸収と新しい人との出会いが、思いでをいっそう愉しく、鮮やかなものにしてくれる。去年の出来事を思うと、後から後から止めどもなく浮かんできたものである。
 しかし、老人になると回想は断片的に繋がっているだけで、輪郭のぼんやりとした影絵のような形でしか現れてこない。これまでに経験した数多くの成功、またそれに劣らない挫折や別離に耐える苦しみを味わい、躍り上がるような喜びも、震えるような強い感動にも鈍感になってしまう。その後にはせみの抜け殻のような干からびた忘却が、惰性のレールとしてどこまでも遠く延びていくだけである。

 もう正月も過ぎ、2月も終ろうとしている。年をとると月日のたつのが恐ろしく速い。時間の長さは年齢の逆数だと言われている。10歳の子供の1年はそれまでの人生の1/10だが、70歳では1/70になってしまう。10歳の子供よりも7倍の速さで過ぎていくことになる。
 ところが去年は少しばかり遅くなってくれた気がする。生まれ育った大阪を離れて南郷町に移住したからである。移住とは大げさかもしれないが、地縁、血縁のまったくない処へ乗り込むからには、開拓移民のようにまなじりを決してという気持ちも、幾分かははたらいていたからである。

 ところ変われば品変わる。魚の豊富なご当地でもまごつくことがある。年越しそばにニシンを添えようと思ったが、塩漬けはもちろん、パックされた調理品もなかったし棒だらを探し回っても見つからなかった。クワイとユリ根はようやく最後のスーパーに置いてあった。

 外浦漁港には故郷で正月を迎えるために鰹釣り漁船が14隻停泊していたが、そのうち大晦日の夜と元旦の朝に1隻づつ出港していった。残っている船には正月の飾りつけをしている。切り出した竹の下枝を払って先端の葉叢だけを残し、上から日章旗、鰹一本釣りの優勝旗、大漁旗などをはためかせて、マストに縛りつけている。

 この竹飾りはこちらでは祝儀、不祝儀にも必ず使われる。神式、仏式にかかわらず葬列の先頭に奉げている。夏祭りの祭神、宝物、神主、巫女、氏子、子供みこし、娘手踊り、といってもそろいのはっぴに飾り拍子木を持った婦人連だが、その長い祭列の先頭にも掲げられていた。

 葬儀といえば姉さん被りが登場する。和服にしろ洋装にしろ喪服の女性たちが白い手拭で姉さん被りをする。ただ、全部ではないので近親者だけのように思うが、なんとも奇妙な姿である。

 ベランダから見ていると、岸壁や桟橋で釣りをする人たちをよく見かける。のぞきに行ってみると、バケツの中には小さな魚が泳いでいる。聞いてみると小鯵だという。それも入れ食いには1度しかお目にかかったことがないので、釣り心のない私には時間の浪費にしか思えなかった。

 1月の20日過ぎにお向かいさんからカマスを数匹貰った。なんとこれがまだ生きていた。塩水を作って入れてみると元気にはねている。それから数日すると、漁港の桟橋に釣り人が並び始めた。何が釣れるのか見に行くと30センチほどのカマスである。みんなバケツやクーラーボックスをいっぱいにしては帰っていく。数日かけて船溜まりの中から桟橋の先端へと移動しながら、今朝はこちら、つまり桟橋の汽水に面した方に並んでいる。土曜日なので人数も多く、女房が見に行ったが老若男女70人まで数えたが、それ以上はあきらめて帰ってきた。
 今年中に釣り竿を買って腕を磨き、来年こそはカマス釣りに挑戦するつもりである。

                   第3号  平成13年2月26日

 こちらの日ざしはすっかり春めいてきました。あちらこちらの田んぼにトラクターが入って田起こしが始まっており、間もなく早生の田植えが始まります。

 宮崎県の面積は7千7百平方キロメートル、人口は117万人ほどです。南北軸が長く、3百キロメートルにもなります。東西軸の長いユーラシア大陸に比べ、南北軸の長いアフリカ大陸やアメリカ南北大陸は農耕や牧畜の伝播速度が遅かったのは歴史的事実です。宮崎県が第1次産業の他にはみるべき産業が育たず衰退しつつあるのも、こういう地理的環境が原因の一つかも知れません。

 宮崎県には9市27町6村の行政単位がありますが、大阪府の泉大津市と泉佐野市はどちらが北だったかと、一瞬考えてしまう私にとって、なんともまぎらわしいことがあります。県北に北のつく地名があるのはわかりますが、北浦、北川、北方、北郷の地名がかたまっているのでまごつきます。この北郷といえばその周囲に東・西・南と郷のつく地名があります。私たちが住んでいる南郷町はたしか県南ではなかったかと思われるでしょう。県北に北郷と南郷があり、県南にもあるのです。ただし、北にあるのは「村」で、南は「町」です。

 となりの日南市と我が南郷町では折込チラシが同じです。つまり商圏が一緒なのですが、ここでもまぎらわしいことがあります。外浦のすぐ近くに食品の「太陽スーパー戸村」のチエーン店があります。引っ越して間もなく気が付いたのは、その他に「スーパーとむら」が別にあるということです。その後半年ほどしてから、「フードショップ戸村」もあることに気付きました。それまでは違ったデザインのチラシを一緒くたに見ていたのです。両方合わせても7万人ほどの商圏で、このまぎらわしい店が9店も散らばっており、その他の食品スーパーや百貨店とも競合しております。地元に人に聞いてみると兄弟といとこどうしで仲良くやっているということですが、いくら身内でも商売敵には違いないだろうと思うのは、せちがらい都会育ちが抜けきっていないのかもしれません。

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                     第4号  平成13年3月4日
 今月の下旬を予定しておりましたが、思いがけない発見がありましたので第4号を繰り上げて発信します。私が住んでいる外浦にもKSDの影が忍びこんでおりました。

 まず外浦の漁船の話から始めます。湾のこちら側の外浦漁協には50トンから100トンあたりまでの16隻が所属しております対岸の栄松にも漁協はありますが船の数は分かりません。停泊している様子からは少ないだろろうと推測しております。

 去年の秋に新造船が入ってきました。汽笛を吹き鳴らし演歌のボリュームをいっぱいに上げ、満艦飾に飾りたてた賑やかな入港でしたが、すぐには接岸しませんでした。湾内を遊弋し、外浦漁協の前あたりをジグザグ運転して、さんざんお騒がせの後に接岸したのは栄松の岸壁でした。日ごろからひけ目を感じていたのか「どうだ、いいだろう」と目の前を行ったり来たりしながらみせびらかしていたようです。

 この頃になってようやく新造船だと気が付き栄松の漁港へ自転車を飛ばしました。紅白の餅や菓子類は配れてた後でした聞いてみると110トンで船価は5億円だそうです。

 10日ほど後がこの船の初航海に出る日でした。満艦飾の旗飾りと汽笛に演歌は入港と同じで、見送りの人たちのテープを切りながの船出です。ところが船影が湾口に近づいて小さくなってから引き返してきました。岸壁には見送りの人たちが大勢残っています。なにかトラブルでも起こったのかと人ごとながら気をもんでいました。船は接岸するでもなく湾内いっぱいに行きつ戻りつした後に、船尾には軍艦旗をひるがえし、軍艦マーチを奏でながら遠ざかっていきました。驚いたことにもう一度引き返してぐるぐると廻り、音の出るものは汽笛からスピーカー、エンジン全開の音までいっぱいにあげ、船首では大きな旗を振り回して派手なパーフォーマンスを演じながら、ようやく外洋へと姿を消していきました。

 新造船でなくても、またこれほどの派手さはないが、外浦漁港からも同じような船出を見たことがありました。昔は設備の悪い手漕ぎの舟で大海原に乗り出せば、荒波の板子一枚下は地獄という漁師稼業では、生きて再び帰ってこられる保証はまったくない。今生の別れとなるかもしれない船出の時は、つきない名残を惜しみ、別離の切々たる哀惜の念をあらわす船別れの儀式が、ハイテク機器を満載した最新鋭漁船の初航海の船出にも受け継がれていたのではないだろうか。

 団地の近くで色の黒い若者をよく見かけます。日本人離れした肌黒は、たとえば大阪ミナミのアメリカ村あたりで、ガングロ・オバンバ系の娘たちならよく見かけますが、宮崎の片田舎で、しかも東南アジア系の顔立ちをした野郎たちです。地元の人に聞くとインドネシアだそうです。日本の若者が3Kの漁船員を敬遠するので、しかたなく使っているのだろうと思っていました。

 最近KSDが世間を騒がせております。「中小企業からかき集めた金を政界にばらまき」と、あたかも中小企業者が被害者側にいるような論調です。ねずみ講でもあるまいし、まったく見返りの無いものに、いくら中小企業でもなけなしの金を出す訳がないだろうと不審に思っておりました。

 ケーエスデー中小企業福祉事業団の下部組織である中小企業国際人材育成事業団(アイム・ジャパン)は若年労働者不足に悩む中小企業に、人件費が節約できると説いてまわり、若者の高い失業率に悩む発展途上国、KSDの場合は主にインドネシアの間を仲介する、山谷や釜ヶ崎の手配師に比べれば、公権力を利用しただけよけいに悪質な、ピンハネ事業団だったのです。 
 財団の発展、拡張に一役買ったのが村上正邦議員をはじめとする労働族議員たちでした。政府が外国人に就労ビザを発給する条件は、特殊能力をもった技術者だけに限定して、単純労働者には与えません。ところが、技能研修者という名目なならば発給する道筋をつけ、その滞在期間も2年から3年に延長するのに貢献したのは、KSDの金脈に群がった政治家や高級官僚たちでした。

 あまりに金額が大きいので補助金でもあったのかと思いますが、研修生の賃金を管理し、中小企業からの加入金を加えると、研修生1人あたり250万円のピンハネができたとテレビは伝えていた。また、研修ビザは残業を認めていない。それを逆手にとって残業を強制し、残業手当を払わずに余剰利得を得た経営者も少なくなかった。あまりのひどさにそれを訴えたり逃亡した人たちも多かったようである。そういう人たちが中央の目の届かない宮崎くんだりまで流れてきて、仕事はきついが多少なりとも実入りのいい漁船に乗り込んでいるのかと思っていた。

 近くの図書館のホールに、南郷町関係の新聞記事の切り抜きコピーが張り出されていルのが目にとまった。その中の成人式の記事で「無秩序な混乱もなく、インドネシアの研修生を最前列に座らせ」とあった。研修生とあるからにはKSDがらみの派遣であり、外浦漁協は低賃金の若年労働者を受けいれられたので大助かりしたと同時に、構造的な金権腐敗の一翼を担っていたのである。

                    第5号  平成13年3月28日

 3月11日を皮切りに始まった早生の田植えは20日にはほとんど終りました。その前の9日にはウグイスが西の山で鳴き始めました。23日にはツバメがやってきました。今まではあまり気にもとめなかった、自然の移り変わりにも目が向くようになっています。

 芝に毛の生えたような苗が心細げに水面をわたる風に揺れています。しかし、気温が上がるとともにぐんぐんと茎が伸び、8月にはもう稲刈りの秋を迎えます。この早場米は鰹の水揚げと同じく高知を抜いております。
 刈り取られた切り株からはすぐに芽が出ます。これは関西でも見られる現象ですが、やがて寒い朝が訪れて田畑は一面に真っ白い霜で覆われ、稲の芽も立ち枯れていきます。ところがこちらでは茎がすくすくと伸び、花を咲かせて実を結びます。やがて黄金色の稲穂がこうべを垂れます。背が低くていくぶんまばらな2番穂は商品価値がないのか、刈り取られることもなく翌年の田起こしの時に鋤き込まれてしまいます。

 運転免許証を更新しました。大阪で20年以上、無事故無違反のゴールドカードでしたが、ブルーの3年免許に格落ちしてしまいました。こちらに来て半年目に一時停止違反で捕まったのです。ドライバーマナー・ワーストワンと言われる大阪で、順法精神にあふれる模範ドライバーでもありませんでした。駐車料金の年間支払額は千円以下という不法駐車の常習犯で、レーン変更のスイッチ運転愛好者でしたが、幸いにも摘発を免れていました。

 それが初歩的な違反をやらかしてしまったのは、あまりにも空いていいるのでいい気になり、ついついぶっ飛ばして見落としていたのです。こちらでは今までの交通地獄が夢のようなのんびり運転です。大阪では交差点の手前の出口から横切って右折れする時、信号が赤になって車の列が左側に並ぶまで待ちます。これは仕方がないのですが、わざとか知らずにか前の出口をふさがれて頭にくることがよくあります。こちらではそこのけの大型ダンプでも詰めずに通してくれます。右折れ車は対向車がはるか向こうに小さく見えているのに曲がりません。まだじゅうぶん曲がれるのにと、最初のころはいらいらしましたがようやく慣れてきました。

 軽自動車が主流ですがどの家も2台は持っており、数百メートルでも歩こうとはしません。私もその1人だから大きなことは言えませんが、驚くほどの老人が立派に運転しています。先日も、ホームセンターで足の不自由な老婦人が、店員に買い物を持ってもらって、杖をつきながら駐車場へ出てきました。敬意をこめて老婦人と呼びましたが、実態は杖だけが頼りのよぼよぼ老婆です。付き添いの人も見当たらずどうなるのかと見守っていると、軽トラックの荷台に荷物を載せてもらい、運転席側に廻ると左手でに台に杖を置き、右手で扉を開くやいなや「ヒラリ」と言いたいところだが、「よっこらしょ」と乗り込んだのにはおったまげた。

 更新手続きは初めて近くの警察署でやりました。これまでは守口市の古川橋運転免許更新センターでしたが、その時は写真は1枚提出しますが、免許証に載る写真はその場で撮影しておりました。今度もわざわざスーツを着て行きましたが、ここではありません。提出した写真を使うようです。スーツ姿は私1人でなんだか浮いているようでした。

 宮崎に来てからまだ駐車料金を払ったことがありません。宮崎市の中心部でも何千円お買いあげ無料などとケチなことはしません。きつい所でもレシートを見せるだけほとんどフリーです。

 アメリカで運転していると、アメリカ人は駐車する時は例外なく頭から突っ込みます。スーパーのカートは日本に比べると倍以上は入ります。それをとランクに移すにはこの方が合理的です。しかし、それ以外でも同じ停め方をします。この宮崎でも駐車場の止め方はアメリカ式が主流です。大阪などでこれをやると出す時に一苦労しますし、扉を開ける時も隣に当らないように注意します。

 宮崎でも駐車場の止め方はアメリカ式が主流です。宮崎県人はアメリカ人と同じく先憂後楽の気風が乏しいのかと思っておりました。しばらくして気が付いたのは、1台あたりの駐車スペースも通路も格段に広いのです。駐車ラインが複線になっているところも多く、出し入れに余裕があるからこういう停め方が普通になったのでしょう。

 年とともに反射神経が鈍くなります。それだけ事故率も上がります。罰金を払った後は気持ちを引き締めて安全運転に心がけています。まだ生きていればの話ですが、もし年齢制限がなければゴールド免許への復帰を目指しております。

                     第6号  平成13年4月25日

 大阪ミナミの心斎橋筋と戎橋筋の間、道頓堀川にかかるのは戎橋だが、通称引っかけ橋ともナンパ橋とも呼ばれている。
 この「引っかける」と「ナンパ」は現在同じ意味で使われている。若い男がどちらかというと軽いノリで、つまり、断られた時のダメージを小さく見せるために、「ナンチャッテ」の調子で女性に声をかけ、あわよくば近付きになろうとする行為を指す。女の方もそれを期待して集まってくるので、橋にたむろする若い男女は、さながら、繁殖期に絶海の孤島で群がるアホウドリのようなものである。

 このナンパは「軟派」と書くのだが、漢字の方が恥ずかしがっているようだ。というのも、その連れ合いが頓死してしまったので、自分だけはなんとか生き延びようとはかり、現在のような片仮名に変異したのである。なくなった相方はもちろん「硬派」だが、世の男たちがオールナンパ化した現在では、強いて使うとすれば強面(こわもて)の方がずっと多い。

 硬派、軟派というのはもともと男性を分類する言葉だった。大日本帝国憲法下の戦前から、戦後に日本国憲法が施行された後も、しばらくの間は使い分けられていた。「あいつは硬派だ」と呼ばれる人には、少しばかりの畏敬の念がこめられていた。もっぱら天下国家を論じ、和漢の古典や武道に心酔し、女性に関心を示すのは女々しい行為と排斥するが、むっつり助平の傾向も強かった。服装に無関心を装い、なによりも武断を尊ぶグループである。軍人、国粋主義者などの尊大士にこのような人たちが多かったのは当然のことである。

 反対の軟派族は恋愛賛美主義者で、西洋の芸術や歌舞音曲に理解を示し、外国文学の愛好者である。身だしなみににも気を配り、ファッションにも関心をもつ人々を指すが、どちらかというと侮蔑の響きを伴っていた。

 戦争に負けて軍国主義が一掃されるまでは、たとえ建前としても、自己犠牲が大義名分をもっていた。硬派という言葉はこのような環境の中でだけ生き延びることができる種である。それが民主主義の世に変わり、自分の幸福を追求するのが当たり前の世の中では、ただ消え去るだけの運命なのだ。

 それでも戦後のしばらくは世を忍んで生き延びていたが、最後の硬派族は「楯の会」の決起によって滅んでしまった。三島由紀夫氏が自ら編成した楯の会を率いて、昭和45年(1970)11月、都内市谷の自衛隊東部方面総監部で総監を人質にとって立てこもった。バルコニーから整列させた自衛隊員に「天皇の軍隊として決起せよ」と檄をとばしたが果たさず、楯の会の同志に介錯されて割腹自殺をとげた。

 氏は華麗な文体をつむぎだす無類の才能に恵まれ、克己の人でもあった。剣の道で心を究めようと志し、また、ボデイビルで鍛えた躯に六尺ふんどしひとつ、ギョロ目の写真が週刊誌のグラビアを飾ったこともあった。氏は中国三星堆の古代王国で縦目仮面を奉じて民を治めた帝王の末裔であり、現代日本硬派族の最後の族長でもあった。

 この割腹事件以後、先立たれた軟派は安住の地を見出さなければならなかった。幸いにもこの言葉は女性名詞の語感をもっていたので、不死鳥のごとく片仮名に変身してしぶとく生き続けたのである。もしこれが男性の語感であれば、世の男たちと同じく3年とはもたなかったであろう。

 最近の政界で「粛粛」という言葉がよく使われている。日経新聞にも書いていたが、どうも後ろめたい行為の言い訳に使われる場合が多いようだ。詩吟でベンセイィーシュクシュクゥー(鞭声粛粛)と声を張り上げさせられた私は、これは押し寄せてくる上杉勢を迎え撃つため、武田の騎馬隊がくつわを引き締めて鞭音も立てず。ひずめの音を忍ばせて夜陰に千曲川を渡る静謐のときを詠んだものだと教え込まれた。

 言葉は生きものであり、先に挙げたナンパのように世相を反映して変わっていくものだ。日銀の先生方が言っている物価の下落にも良い悪いがあるように、言葉の移り変わりにも善悪の区別があるのかもしれない。これはそれぞれの価値観の問題になるので、ここでは不問にしよう。

 しかし、もう20年もたてば、粛粛という言葉は、静か、厳か、引き締まるなどの、たぎる心を内に秘めた静の振る舞いには使われず、理屈もへったくれもあるものか、数の力でゴリ押しに物事を決めるという意味に変わっているに違いない。

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                                     第7号  平成13年5月25日

 今年の鰹漁は黒潮が蛇行しているためか不漁で、去年に比べるとかなり値段が高いようです。店頭に並ぶ魚種も少なく、期待していた「左巻き」も高値のままです。門外漢の私は農作物のように季節の移り変わりに従って、魚はいつも獲れるものだと思っておりました。気温、水温、海流、プランクトンの発生など微妙なバランスを読み取ってこそ、大漁にありつけるというものです。


 後でわかったのは、1月末に外浦湾でのカマス漁も、たまたまカマスの群れがイルかかマグロに追われて湾内に逃げ込んできたから釣れたのであり、毎年来るとは限らないそうです。

 端午の節句にちなんで鯉のぼりが数多く立てられました。例によって竹竿の笹飾りはつき物で、矢車の横にわざわざもう1本立てます。黒、緋、紺、緑の鯉のぼりに混じって、ご当地らしく鰹のぼりも泳いでおります。よく川幅一杯に渡したワイヤーにたくさんの鯉のぼりがひるがえる光景をテレビなどで見ますが、外浦漁港でも突堤と停泊している漁船を利用して鯉のぼりを張り巡らせております。窓から双眼鏡で数えてみると75匹いました。

 こちらの女性の服装はどちらかというと地味です。若い、といっても20代後半のことですが、黒いスラックスに暗色の上着というカラスルックをよく見かけます。よくいっても中間色どまりで、ぱっと目の醒めるような配色にはなかなかお目にかかれません。これに帽子とエプロン、さすがに割烹着ではない、が標準スタイルです。70キロも離れた宮崎市内へは行かないと思いますが、10キロ離れた隣町の日南市あたりまでは堂々と出かけていきます。

 みんなが運転することは前にも触れましたが、うちのかみさんが今月から始めた大正琴の仲間で70歳を超えた老婦人が、軽ワゴン車で送り迎えしてくれます。ところがその人は30年も運転しているそうですが、片目が不自由なうえに足が悪いので正座できないそうです。乗せてもらっていても生きた心地がせず、ずっと手摺を握りしめているので、降りるときは手のひらが汗ばんでいるとこぼしています。

 4月に私は運転免許証の更新に行きました。係りの警察官が視力検査の方法を説明しました。視力表の丸い環を葉書大に拡大した見本を示し、上下左右のどこかが切れているが、斜め方向の途切れはない。その切れている向きを答えてくださいと丁寧に説明してくれました。

 年配の婦人が検査の時に答えたのは、「マル」です。二度も三度も同じ答えで、警官は苦笑しながらもう一度見本を示して説明しました。ところがその次の答えも「マル」でした。この強情な婦人の片目はほとんど視力がなく、反対の視力と視野計の検査の後、かろうじて合格しました。親切に送迎してくれる人は4月に免許更新をしなかったか聞いてもらいたい。

 こちらの女性はよく働きます。町の清掃車にも女性が活躍しています。それも運転専門ではなく、おそらく、20代、30代の女性ですが清掃車の後ろにぶら下がって、ゴミを車に放り込んでいます。都会地では考えられないことですが、それだけ働く機会が少なく、清掃局であれば地方公務員で文句なしというところでしょうか。

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                       第8号  平成13年6月27日

 梅雨の中休みで真夏の晴天です。こちらの早生稲は穂を出しはじめました。あと一と月半の間に稲刈りが始まります。外浦漁港には鰹一本釣り漁船は一隻も停泊しておりません。たまに帰ってきても、あわただしく出ていきます。黒潮にのった鰹を追っかけて、はるか三陸沖あたりまで上っているようです。

 今日は湾内に小魚がまぎれ込んできたのか、空にはたくさんの鳥が舞っております。トンビ、カモメ、カラスたちですが、いちばん強いのトンビはカモメと相性がよく、喧嘩もせずに飛び交っています。しかし、カラスは目の仇にして追っ払います。そのカラスは弱いカモメを攻撃しますが、トンビが守ってやります。

 前回に書いた大正琴を送迎してくれる目の悪い婦人は去年に免許更新をしたそうです。私が目撃した強情な婦人は別人で、こういう人たちがわんさと運転していると思うと空恐ろしくなります。大正琴の同期生は前にも書きましたように片目と足が不自由です。大正琴も、同じくはじめたパッチワークも町主催の講座で、受講料は要りません。だから、うちのかみさんも少しぐらいの恐怖感を押し殺して乗せてもらうのは仕方のないことだと思っております。

 ところがこの前の稽古の時に、残りの目が悪くなってきて、もうすぐ白内障の手術を受けなければならないと言いました。神仏に手を合わせる時には「お金は要りませんから目を下さい」と祈るそうです。それでも運転は続けておりますから、うちのかみさんにも
”タダほど高くつく”かもしれないので、ていよく断って自家用車の送迎を選んだらと薦めています。

 そのかみさんが、町主催のこれもタダですが、パソコン講座に通いだしました。夜間3時間、計12時間の講座で、東芝のノートパソコンを使っての初歩からの手ほどきです。30人の受講者のうち中年は少なく、若者が2/3、残りが老人です。家のディスクトップを使って練習していったかいがあったのか、よく分かると張りきって出かけています。絶大な期待をもってメールをお待ちください。